2017年12月22日

ドミニオン発売10周年を前にデッキ構築の歴史を辿る・前編

 この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2017 の第22日目の記事として書いたものです。

 どうも、数寄ゲームズの円卓Pです。去年に続き、Board Game Design Advent Calendarについて記事を書かせて頂きます。去年の記事は「タイブレークの話」というタイトル通りの内容です。今年の内容とは殆ど関係ありません。

 さて、表題通り、来年2018年はドミニオンが発売されて10年になります。10年! いやはや凄いもんですね。明治は遠くになりにけり。
 何度か話しているような気もするんですが、ぼくがボードゲームの世界に足を踏み入れた最初の一歩はまさにドミニオンだったりします。すなわちドミニオンチルドレン。ドミニオンと共に生まれ、ドミニオンと共にこの10年を歩んできたと言っても過言では…… いや、それは過言かな。そもそもぼくがドミニオン買った時にはもう錬金術とか出てた気がするし、正直言えば本腰入れて遊び始めたのは2010年からだし…… 実質プレイ歴8年くらいだよな……

 さておいて! ぼくは大まかなところではデッキ構築の歴史を生で体感してきた身とは言えるのではないかと思うのです。そして驚くべきことにそうしたプレイヤーは今や少数派に転落したのではと言わんばかりの近年の急激なプレイヤーの増加。その背景からぼくが見てきたデッキ構築の10年をぼくの主観的視点で語ることは決して無駄ではなかろうと、そういう決意の元に駄文を連ねようという、今日はそんな塩梅でお送りします。
 ホントはメカニクス的にはワーカープレイスメントの方が好きなんですが、ワーカープレイスメントについては誕生からリアルタイムで変遷を追っていないので語れる身ではないのであります。当事者によるワーカープレイスメント史観というのはぜひ聞いてみたいところではありますが、同様に当事者によるデッキ構築史観を一度纏めておくことは価値のあることではないかと思うので、仕方ねえ…… やるか…… という感じでキーボードを叩き続けています。

 多少の好みの違いはあるとしてドミニオンが名作であるという歴史的評価について異を唱える人はいないのではないかと思います。しかし、同時にユーロ文脈とはまったくかけ離れたこのアメリカ産ゲームに対し、伝統的ユーロ陣営は忸怩たるものを感じてもいたのではないかと思います。なんとか弱点を見つけてやろう、なんとかディスってやろう、という怨念にも似た超克の連続こそがデッキ構築の歴史を形作ったとも言え、デッキ構築の歴史とはすなわちアンチドミニオンの歴史と呼び替えることもできるのです。
 この偉大なる始祖への挑戦の歴史はゲームデザイン的にも学ぶべき視座に溢れています。デッキ構築のゲームを作る予定がないとしても、先人がデッキ構築というメカニクスをどう捉え、解釈し、咀嚼し、改良したかの道筋は他のメカニクスを扱う際にも大きなヒントを与えてくれることと思います。

 今回の記事ではドミニオン、そしてそれに連なる数多くのデッキ構築ゲームの中から特にドミニオンの弱点に深く切り込み、後年に大きな影響を与えたと考えられる各ゲームの立ち位置について述べていきます。

・ドミニオン(2008)
 2008年に誕生したドミニオンはTCGの文脈からなるデッキ構築というメカニクスで一世を風靡しました。このメカニクスの最大の功績は、適度に収束するランダマイザを実現したことに尽きるとぼくは解釈しています。
 デッキ構築システムの最大の特徴は簡潔なカードの循環です。カードは順次「手札→捨て札→山札→手札」と状態遷移します。新しく購入した強力なカードは捨て札に置かれ、このサイクルの一部に組み込まれます。
 カードは手札からプレイされた瞬間だけ効果を発揮し、即座に捨て札に移動し、パーマネントとして場に居座りません(後年の拡張はさておいて)。再びカードを手札としてプレイするには山札の枯渇を待ち、捨て札をリシャッフルして新たな山札を作ってからドローし直す必要があります。このリシャッフルからのドローにランダム性が付与されます。

 これは街コロ(2012)とドミニオンを比べて貰えばわかりやすいんですが、例えば街コロで強力なカードを買ったとしましょう。そのカードの出目がズンドコズンドコ出まくれば、まあ、ゲームには勝ちます。逆に必要な出目がまったく出なければゲームには負けます。ダイスをランダマイザとして据えている街コロはそういう構造のファミリーゲームです。
 比してドミニオンでは強力なカードを買ったとして、その1枚が手元に来るまではタイムラグがありますし、1回使ったらまたリシャッフルするまでは利用することができません。ですがカードを買えば、デッキが1周するまでに必ず手札に来ます。反対に1枚の強カードをただひたすら連続起動することもできません(理屈としては。実際は圧縮戦術があるワケですけども)。この塩梅が戦略的ゲームとしてはとても都合がよかったんです。

 ランダマイザとしてのデッキの利便性こそがドミニオンの発明です。ゲームの完成度から語る分にはドミニオンは瑕瑾の多いゲームであることは否めなくて、最初のカードセットのパワー格差はデザイナーすらデッキ構築の本質を掴めていなかったことを物語っています。ドミニオンの弱点として指摘される幾つかの項目はデッキ構築のメカニクスの問題ではなく、カードバランスに由来するものという言い方もできるかと思います。今改めて振り返ってみるととても興味深い、しかしまあ2版が出るのも当然だよなという内容ですね。
 ともあれ以後10年に渡って拡張が出続けるドミニオンの歴史はここから始まったワケです。


・アセンション(2010)
 種々の志の低いドミニオンクローンが氾濫する中、明確にドミニオンとの違いを強調して誕生したゲームがアセンションです。
 アセンションの提示したドミニオンとの差異とはすなわちサプライのランダム化です。ドミニオンではゲーム開始時に選択される10種のカードがリプレイアビリティを担保していたワケですが、その組み合わせにも限度があり「ドミニオンの実プレイは答え合わせ」と揶揄される側面もあったワケです(そもそもそこまでタフにリプレイされること自体が驚くべきことなんですが)。そうした固定化する環境へのアンサーとしてサプライの流動性、アドリブ性を提示したのがアセンションの提言の功績と言えましょう(それが競技的に遊べるゲームなのかという話はさておいて)。セットアップもドミニオンに比べれば簡単でお手軽。以後「アセンション型」と呼ばれるサプライのデッキ構築ゲームが誕生するキッカケにもなったゲームです。
 もう一つアセンション型の大きな利点としてカード枚数を圧縮できるという点があります。ドミニオンは面白いゲームである反面、基本セットからカード500枚という莫大な物量を誇るゲーム屋泣かせのゲームです。どんなへっぽこカードでも最低10枚は必要というルールがそうさせているワケですが、それに対してアセンションはカード200枚、トークン50個、ボード1枚に物量を纏めました。しかもボードは実質カード置き場みたいなもんです。
 そうしてコンポーネントを圧縮することで何が生まれるかと言えば、じゃあ浮いたコストで何か加えられないかというデザインの余地でありまして、後年ボード付きアセンションと呼ばれたクランク(2016)が誕生するのもなるほど必然かもしれないと考えさせられるのであります。


・パズルストライク(2010)
 正直ぼくはこのゲームを遊んでないんですが、デッキ構築史上見逃すことのできないゲームと言っても過言ではないでしょう。このゲームの功績は一言で言えばカードではなくタイルを用いたエンジン構築のゲーム、バッグビルドの始祖ということです。
 ドミニオンの数ある弱点の一つとしてシャッフルが面倒くさいという点が挙げられます。この弱点に対する回答の一つがバッグビルドです。カードではなくタイルを用いるバッグビルドの切り口は相当に斬新だったようでこの方向性の探求はしばし時を隔てて4年後に再び姿を現します(バッグに入れてタイルを引くのはドイツゲームの文脈では珍しくもないので不思議な気もしますが)。
 なお、ドミニオン自体もチップにしてバッグビルド風に遊べばいいじゃんというファンメイドなドミニオンチップという試みもありました。カードをそのままチップ化しているので情報量が多いですね……


・数エーカーの雪(2011)
 デッキ構築史において革新的な一作と断言していいでしょう。それがあのマーティン・ワレスの手によるものという事実は意外な気もしますし、必然であるような気もします。
 この2人用ウォーゲームはデッキ構築をメイン要素ではなくエンジンとして位置づけた初期の1作であるとともに、既存のデッキ構築ゲームの文脈から逸脱する新しい試みを多く取り入れ、なおかつ高い完成度を誇るという点で、驚嘆すべきゲームでありました。メイジナイト(2011)と共にボードゲームとデッキ構築の最初の融和の一つと言っていいでしょう。
 数エーカーの雪において、カードはデッキ構築の循環をしばし飛び出し、ボード上に長く居座り続け、デッキの中に戻らないという機能を与えられました。これはゲームの性格上ピンポイントで特定のカードをプレイする必要があるため、カードプレイの予約がゲームデザイン上要求されたためだと思われます。そのため、カードの挙動は簡潔さを失いはしましたが運要素は低減され、戦略的なゲームにふさわしい硬質のランダマイザに変貌しています。これはドミニオンの示したカード循環に対する最初の挑戦でもあります。
 デッキのカード枚数がさほど膨らまないのも近代的と言えるでしょう。そうそう、デッキ構築は時代を経るに従って小枚数を指向するようになります。大商人(2011)は時代を先読みしていた……?


・ハートオブクラウン(2011)
 国産のデッキ構築ゲーム。ドミニオンクローンの一種と言っても差し支えないのですが、数エーカーの雪と同様にカード予約のルールがデッキ構築のランダマイザとしての働きに疑義を呈していて野心を感じます。以降のデッキ構築ゲームに対して影響を与えたかというと限定的だとは思うんですが敢えて挙げます。


・ロココの仕立て屋(2013)
 ユーロゲームとデッキ構築の融合は半ば予言された結婚ではなかったか、というのは歴史を振り返る立場だからこそ言える言葉なのかもしれませんが、それでもデッキ構築という巨大な潮流に対するユーロ側の返答の一つはドミニオンの発売から5年の後に示されました。
 ロココの仕立て屋はリシャッフルを廃したデッキ構築ゲームです。そしてゲームの要素の多くはメインのボードに散りばめられていて、デッキとして束ねられたカードはワーカープレイスメントにおける能力差付きワーカーのように機能する点でよりユーロ風の味付けの濃いゲームとなっています。デッキ構築はサブメカニクスの一種として後退し、早取りやマジョリティ争いのインタラクションが前面に出た典型的モダンユーロとして完成しました。
 申し訳程度にデッキの存在がありますが、カードをドローする際に山札から任意のカードを選べる点で「手札→捨て札→山札→手札」の循環は形骸化しています。
 偶然なのか、はたまた必然なのか、2013年はそうしたリシャッフルを廃したデッキ構築ゲームが同時多発的に誕生した年でもありました。


・ルイス・クラーク探検隊(2013)
 デッキ構築とレースゲーム、そしてワーカープレイスメント要素もあるよ、と要素モリモリなボードゲーム。カードも効果はユニークでモリモリ。肝心のカードの状態遷移は「手札→捨て札(場札)→手札」と循環し、ロココの仕立て屋と同様にデッキ構築部分からリシャッフルが取り除かれています。
 珍しいのはリソースを得る際に相乗りの要素が強く、エンジンが個人で完結していない点です。ドミニオンの弱点の一つとしてインタラクションの弱さが挙げられることがありますが、このゲームでは他人がプレイしたカードによって獲得リソースの多寡が相当に変わるので自分の手札、場札だけを見ていても上手く行きません。より状況に応じたアドリブ性を求められるゲームです。一方でそれはドミニオンの美点である軽快なプレイテンポを損ねる面もあり、結果としてかなりの重量級ゲームになっています。


・コンコルディア(2013)
 結果としてコンコルディアにおけるカード循環はルイス・クラーク探検隊と近似なのでこれもデッキ構築の進化の一形態なのだ、と位置づけたくもなるのですが、ちょっと制止をかけたくなるのはこのゲームの作者がマック・ゲルツだからでありましょう。
 ゲルツと言えばロンデルシステム。コンコルディアのカード循環はこの発展系と見ることもできて、デッキ構築の影響ありやなしやは判定しづらいのですよね。つまり、仮にドミニオンがなかったらコンコルディアはどうなっていたのか、というシミュレーションを検討せざるを得ないところがルイス・クラーク探検隊との決定的な違いです。
 デッキ構築史観として「デッキ構築の進化とはランダム性の排除である」という結論は簡潔で飲み込みやすいのですが、そもそものゲルツ自体が運要素にあまり重きを置かないデザイナーなので単純に同一線上の哲学で作っただけと言えなくもなく。
 しかしながらこのゲームがゲルツの諸作の中で最もユーロらしさを感じられるのは、それまでの作品の中では割と頻繁に発生する2桁の数字の暗算を極力廃していることにあるのではないかと思います。インペリアルだったりナヴェガドールだったりは(あるいはハンブルグムもそうですが)割とその辺経済ゲームを指向したゲームではありまして、それに比べるとプレイヤーに寄り添う姿勢が見えてきた辺りゲルツも丸くなったよな、みたいな……
 なんかデッキ構築の話というよりゲルツの話になってしまいましたが。


・カシュガル(2013)
 2013年産のゲームの例に漏れずリシャッフルを廃したデッキ構築ゲームなんですが、一風変わったところはデッキ構築部分からは完全に運要素をなくした一方でサプライは山札引きという相当荒いランダム要素をぶっこんできたところです。ユーロ流のデッキ構築としてランダム要素を除きつつもファミリーゲームとして適度な運要素は必要だよねというコンセプトに過渡期ならではのキメラ感が垣間見えて大変に味わい深いゲームとも言えますが、最初に運試しをさせてからあとはマネジメントでなんとかしてよ、という順番がダイス振ってから考えさせるのと同様のユーロ哲学なのかなという気もします。



 さて、ここで一息。2013年のリシャッフルのないデッキ構築ゲームの同時多発的な誕生はユーロ側のデッキ構築に対する一つの結論と位置づけてよいでしょう。これはプレイアビリティを損ねるリシャッフルに対する回答であると同時に、より計画的、戦略的なゲームにシフトすべくランダム性を取り除く方向へ舵を切るぞという宣言でもあります。
 山札(デッキ)を捨てたデッキ構築はより定義を広げて「これってエンジン構築ゲームだね」みたいな感じで呼ばれることになります。言霊ではないですが、背骨でもある山札を失った/取り除いたことで、ゲームデザインの枷が一つ取り除かれ、より自由な探求の余地が生まれたと言えるのかもしれません。
 また、ランダマイザとして誕生したデッキ構築からランダム性を取り除くという進化の歴史はなんとも皮肉さを感じさせるのですが、一方でその選択はドミニオンの魅力である圧倒的なテンポやカジュアル性を失わせる結果にもなりました。未だ拡張が続くドミニオン本線との差別化を求めるためにデッキ構築をゲームエンジンに据えた戦略ゲーム群は今後より重厚長大路線を歩むことになります。

 というところまで書いてきましたけど、ここで時間が尽きました。ここまででデッキ構築史5年史。ちょうどドミニオンもギルド拡張の発売で展開に一段落がついたところです。後半は日を改めて書きたいと思います。
posted by 円卓P at 23:12| Comment(2) | ゲームデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月22日

タイブレークの話

 この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2016 の第22日目の記事として書いたものです。

 どうも、数寄ゲームズの円卓Pです。なんかボードゲームの動画とかポッドキャストとか色々やってます。ゲーム作りは一昨年のゲームマーケット秋に初出展しましてこれから3年目になります。
 去年に続き、Board Game Design Advent Calendarについて記事を書かせて頂きます。去年の記事は「マジョリティについての話」というドイツゲームによくあるメカニクスの一つの特徴を挙げた内容です。

 で、今年はタイブレークについて書きます。タイブレークというのは言葉通りにタイをブレークすること、引き分け状態を勝ちか負けかに収斂させる方法を指す……のではないかなと思います。とりあえず今回の記事中ではそんな感じの意味合いとして扱います。
 で、このタイブレークという概念はどんなゲームにも大体出てきます。勝利点制のゲームを作るなら、ゲームの終了時に勝利点トップタイのプレイヤーがいた場合、どちらを最終的な勝者とするのか、あるいは「全員が勝利を分かち合う」のか、デザイナーはルールにそれを書き記す必要があるでしょう。
 勝ち負けを分けるのは副次的なリソースだったり手番順だったり…… つまりタイブレークのルールには「結局このゲームにおいては何が大切なのか」が込められています。タイブレークのルール設計によってゲームの方向性をより良く伝えることができるのではないかという話を今回はしてみたいと思います。

 さて、年の瀬になって振り返ってみれば今年もそれなりに多くのゲームに触れてきましたが、今年最も鮮明に覚えているタイブレークのルール…… それはレスリングです。

 いやあ、オリンピックの緊張感は凄かったですね。吉田沙保里選手、残念でした。普段はオリンピック全然見ないマンなんですが、吉田沙保里選手の試合だけは見逃すまいと思って、あの日は夜更かししたのでした。

 いきなりボードゲームから離れた話題でズッコケてる方もいるかもしれませんが、さて、レスリングはポイント制の2人用ゲームです。ゲーム終了時に獲得ポイントの高いプレイヤーが勝利します。そしてフォール勝ちやテクニカルフォールと言ったサドンデスルールもあります。ポイントとサドンデスを併用しているのは、ボードゲームで言えば世界の七不思議:デュエルみたいな感じですね。
 でまあ、サドンデスで決着した試合はおいといて、取り上げたいのは時間切れ同点で終わった場合です。この場合、レスリングのタイブレークルールは以下のように規定されています。

http://www.japan-wrestling.jp/wrestling_rule/

■同点で終わった場合は下記の基準で勝敗を決める。
(1) ビッグポイントの多い選手
(2) 警告が少ない選手 
(3) ラストポイントを取った選手 ⇒ 両者とも2点と判定された展開が最後だった場合は、その技を仕掛けた選手が勝利


 この3つのルールにはそれぞれデザイナーの「レスリングとはこういうゲームであって欲しい」という意思が垣間見えます。が、とりあえず(1)と(2)の説明は割愛します。このルールは真の意味でのタイブレークとしては機能していないからです。
 真の意味でのタイブレーク…… カッコイイ表現だ…… まあ、別にちょっと気取ったことを言いたいワケではなくて、(1)と(2)のルールは両者ともに同値である可能性があって、このルールだけで勝ちと負けを完全に切り分けることはできないんですよね。
 仮に(1)(2)のルールがなくても(3)があれば勝者か決まります。逆に(3)がなかったら(1)(2)のルールだけでは勝者を決められない場合があります。そういう意味でタイブレークとして完全に機能していると言えるのは(3)のルールだけなんです。

 「……ん、だけど両者0ポイントの場合、(3)のルールでも勝敗を切り分けることはできないぞ?」と思った方、なかなかルールを読むことに慣れている方ですね。ぼくも今気づきました。

 で、慌てて今調べてみたところ、レスリングでは試合開始から規定時間が経過した時点で両者0ポイントだった場合、どちらかのレスラーが必ず消極的な試合をしているハズなので審判団は無理矢理にでもどちらかに警告を発して両者0ポイントの状態を崩す、ということらしいです。凄い力技だな!
 この辺、めちゃくちゃ噛み砕いた説明ですので、詳しい人はどうか暖かく見てやってください。

 ともあれ、このルールを加えたことで(3)のルールはようやく完全にタイブレークとして機能することになりました。いやあ、よかったよかった。

 さて、ここで改めて(3)のルールの意図について考えてみましょう。(1)のルールはハイリスクな大技を決めたプレイヤーを評価する意図、(2)のルールはフェアプレイに徹したプレイヤーを評価する意図が窺えます。さて、それでは(3)のルールにはどのような意図があるのでしょうか。

 答えを言えば、(3)には積極的なプレイヤーを評価するという意図があります。先に得点を取ったプレイヤーはリードを守れば時間切れでも勝てるのですから自ずと及び腰になります。しかし、防御に徹したプレイヤーを崩すのは(特にオリンピックのようなハイレベルで選手の技能が拮抗した舞台では)難しいですから、最終的に同点でも劣勢から挽回したプレイヤーをより勝利に近いプレイヤーと見なすワケです。
 同点に追いつかれたらタイブレークルールで負けるとなれば、ポイントで先行しているプレイヤーもなお追加のポイントを狙いに行かなければなりませんし、そうなれば劣勢のプレイヤーにも逆転のチャンスが巡ってくるでしょう。これは安易な先行逃げ切りを許さない、とても良くできたルールだと思います。

 先制点を取ったプレイヤーがそのまま勝ってしまうゲームは、ぼく達の界隈でもあまりよろしくないゲームとして扱われます。逆転の機会をいかにプレイヤーに提供するかはデザイナーの手腕の見せ所ですが、レスリングにおいてもそれは同様なのでしょう。

 こうしたルールの整備によって「レスリングとはプレイヤーが積極的にポイントを取っていくゲームなんだよ」という意思をデザイナーは表明しています。タイブレークのルール設計によってゲームの方向性が明らかになるというこれは一つの例ですね。

 さて、タイブレークのルール設計はゲームの勝敗のみならず、ゲームを構成する各種メカニクスにも歯車として組み込まれています。例えば去年の記事で触れたマジョリティではタイブレークのルール設計は不可欠ですし、メイフォローのトリックテイキングなんかでもこれは避けて通れない課題です。

 例えばメイフォローのトリックテイキングにおいて、あるトリックで最上ランクのカードが複数枚プレイされた場合、先にプレイしたプレイヤーがトリックを取るか、後からプレイしたプレイヤーがトリックを取るか、どのようにタイブレークを設計するかによってゲームの性質はガラリと変わります。
 それは恐らくゲームの目指すべき方向性、トリックを多く取ることを目指すゲームなのか、トリックをなるべく取らないようにするゲームなのか、あるいはビッドに応じてトリック数を調節するゲームなのか、にもよるでしょう。タイブレークはゲームの方向性をより強調するために設計するのが基本になります。

 また、タイブレークの設計次第では、このゲームならではのユニークな味わいを演出することもできます。その例の一つとして挙げられるのは「ハゲタカのえじき」でしょうか。
 これはいわゆるバッティング部分を指してタイブレークと言っているのではなく、全員がバッティングした場合に場札がキャリーオーバーされる部分を指しています。基本的に「ハゲタカのえじき」は1手で獲得できる得点の上限は10点ですが、キャリーオーバーが発生した場合は次のラウンドの得点が11点以上になる可能性があります。まあ、得点が減る場合もあるんですけど。
 タイブレークの設計として全員がバッティングした場合、場札を捨ててもゲームとしては問題なく成立します。しかしながら、キャリーオーバーが発生する方がよりプレイヤーの興奮を掻き立てる展開になることからランドルフは「ハゲタカのえじき」をそのようにデザインしたのでしょう。

 ぼく個人の話をすると「ハゲタカのえじき」はバッティングゲームの常として多人数で遊ぶゲームという印象から4-5人で遊ぶことが多いです。「少なくとも2人で遊ぶゲームじゃねーよ」と思ってもいました。
 結果的にキャリーオーバーが発生したことは稀です。ですが、むしろ2-3人で遊ぶとキャリーオーバーもそれなりに発生するんじゃないでしょうか。
 そうなると切り札となる15をいつ使うのか、相手が15を使ったならこちらはキャリーオーバーも見据えてバッティングを意図して仕掛けていくような、多人数プレイとはまたちょっとキモが異なるゲームに変貌するのかもしれません。

 シンプルなルールの奥底に展開に豊かさを与える仕掛けを隠している。これが凡百のバッティングゲームとは一線を画す「ハゲタカのえじき」の凄さなのかもしれませんね。うーむ、多人数ゲーだと思い込んでいて、ランドルフくんスマンな!

 ちなみに「ハゲタカのえじき」の総得点でタイが発生した場合はどうするんだろう、と思ってルールを読み返してみたんですが、そこはなんも書いてないですね…… まあ、そういうこともあります。

 さて、もう一つユニークなタイブレークルールの設計の実例を挙げたいと思います。それは「そんな顔してどうしたの?」です。ああっ、漂うステマ臭!
 このゲーム、出題者の動物の顔まねを見て、どの動物の顔まねをしているかを回答者が当てるゲームなんですが、正解者が複数いた場合「直接対決」というタイブレークルールが発動します。

 ちなみにこの「直接対決」は原文では「FACE-OFF」というのですが、デザイナーのPenelope Taylorさんが「顔まねゲームでFACE-OFFって、ププッ、シャレてるわー」と思いながら名付けたのではないかと推測しています。訳文ではその辺のダジャレ感を演出できなかったのはちょっと残念なところですが。

 さて、この「直接対決」では、正解者同士が当該の動物の顔まねをするという、かなりぶっ飛んだ処理が唐突に始まります。かつての回答者が今度は顔まねをして、かつての出題者が今度は誰の顔まねが一番ナイスかを判定するんです。
 まあ、そのあべこべ感というか、役割がグルッと反転しちゃう感覚自体がユニークと言えばユニークなんですけども、ぼくが着目したいのはこのタイブレークルールがゲームの局面に幅広さをもたらしているということです。

 このゲームは言ってしまえば、動物の顔まねをいかに上手く再現するかの「表現力」、そして出題者の顔まねがどの動物のものかを見抜く「観察力」、この2つの能力を競うゲームと言えます。そしてこのタイブレークルールのおかげでこのゲームは求められる「表現力」と「観察力」のバランスが毎回変化するゲームになっているなとぼくは感じているのです。
 ……まあ、そこまで真面目に能力を競うゲームかという疑問はここでは置いときます。



 どういうことかと言えば、このようにカードが並んでいて出題者がガバッと口を開けた顔まねを始めたら、回答者一同は「こりゃもう疑う余地なくカコミスルだわ」とカコミスルを指差すことになります。で、その後は正解者全員でカコミスルの顔まねをして、一番ナイスだった人が勝ちになるんですけども、この場合、回答者に求められる能力比は「表現力」:「観察力」が10:0ということになります。観察するまでもなく正解がわかるので、あとはどれだけカコミスルの表情をうまく再現するかの「表現力」の勝負になるワケです。

 逆に同じカードの並びでも例えば出題者がなんか無表情の顔まねを始めたら、これはどの動物の顔まねをしているのか当てるのは難しい…… つまりこの場合、「表現力」よりも「観察力」を競うゲームになるワケです。さらに出題者の表現力の高低によっても求められる「表現力」と「観察力」のバランスは変わってくるでしょう。

 全く同じインターフェースで展開されているにも関わらず、求められる能力が毎回少しずつ変化するこの展開のグラデーション、実は深いゲームなんじゃないですか……? 正直デザイナーさんがそこまでキチンと考えてタイブレークルールを設計したとは思わないんですが(失礼な)、これは天然ならではの直感で正解に辿り着いちゃった一例なんじゃないかと思っています。

 とは言え、正直このタイブレークルールの存在が「そんな顔してどうしたの?」の個性を一段引き上げていることは間違いないので…… フツーのゲームから一歩抜きん出るための工夫とはタイブレーク処理にあるかもしれない、という視座はゲームを作る上で何かしらのヒントになるかもしれません。


 ということでここまでタイブレークルールの幾つかの事例について触れてきました。最後の「そんな顔してどうしたの?」の例でもわかるように個性的なタイブレークルールはゲームのインパクトを決定づける強さを持っていることもあります。
 ただ、凝ったタイブレークルールは煩雑さの裏返しでもあり、どこで力を入れるか、どこで力を抜くかはセンスの求められるところです。ランドルフだってハゲタカの最終得点では手を抜いているんです。力を込めたところで劇的にゲーム展開が広がるのでもなければ無理に工夫を凝らす必要もないでしょう。
 あとは逆にタイブレークの機会を極力なくすゲームデザインというのもあるかと思います。スッキリしたルールになると思いますが、スッキリしすぎて意外性が乏しくなることもあるので、そこをどう味付けするかですね。

 そう、タイブレークルールを考える上で意外性という言葉はキーワードだと思います。基本的に勝ちか負けが本線のところにスッと出てくる第3の道タイブレークの存在感というような。ゲーム自体がスッキリしすぎているならタイブレークでコクを出す的な使い方はあるかもしれません。
 まあ、そこまでタイブレークだけに拘る必要ってないんですけど、なんか一つの手法として頭の隅に留めておくとそのうち役に立つかもしれませんね。


 そんなところで。
posted by 円卓P at 23:41| Comment(0) | ゲームデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月22日

マジョリティについての話

 この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2015 の第22日目の記事として書いたものです。

 どうも、数寄ゲームズの円卓Pです。なんかボードゲームの動画とかポッドキャストとか色々やってます。ゲーム作りは去年のゲームマーケット秋に初出展しましてこれから二年目になります。
 去年に続き、Board Game Design Advent Calendarについて記事を書かせて頂きます。去年の記事はトスのインタラクションというドイツゲーム風のインタラクションの特徴を挙げた内容です。

 で、今回はマジョリティについて書きます。マジョリティってのは『エルグランデ』とかのアレです。
 去年の記事との関連性があるかというと、これはあんまりなくて。マジョリティという仕組みは我慢比べ、他者より一歩でも先んじて利益を得るチキンレースであるため、他者の利益を束縛するトスのインタラクションとはジレンマの持って行きどころが違います。
 それなら今回なんでマジョリティの話をするのか、という話をすると、ゲーム作りにもう一味が欲しいと思った時に割とコスト低めに実装できるのがこれなんじゃないか、とぼくは思ってるからです。そんな簡単な話じゃねーよ、とお叱りの言葉を受けるもしれませんが、ボードゲームの歴史を見ても『エルグランデ』の後に大量のエリアマジョリティのゲームが生み出されたように、これはとても手をつけやすい筋の通ったメカニズムなんです。

 1つのゲームが生まれてその後ジャンルが形成されるにはもちろんそのゲーム自体に面白さが必要ではあるんですが、同時に(真似しやすさと言っては身も蓋もないんですが)手間をかけなくても同じようなものが作れる手軽さが必要で、それはデジタルゲームの世界で特に顕著です。まあ本当は発明のための多大なコストをオリジナルは支払っているんですが、追随したゲームはそのコストを踏み倒せるという強みというかズルさというかがありまして、この辺は倫理とか美学とかプライドとかそんな話になってしまいそうなので適当に切り上げますが、ジャンルが形成されるほどにコストは安いという言い方ができるわけです。
 話は逸れましたが、なのでまあ、この辺は意識として去年から通底する部分があるんですが、ドイツゲーム風のゲームが増えたらいいなあ、とぼくは思っているので、さてそのために手を付けやすい部分を挙げてみようじゃないか、というのが今回の本旨になります。

・マジョリティとはなんぞや?
 『エルグランデ』のアレ、とさっきは書きましたが、ここで眉を潜めた方、いるのではないかと思います。『エルグランデ』のアレは一般的にはエリアマジョリティと呼ばれているからです。全体ボードを幾つかのエリアに区切り、配置したキューブの数で勝負する。1位2位3位が報酬を得られて4位以降はどれだけキューブを置いてても報酬なしよと。
 エリアマジョリティ自体は『エルグランデ』で花開いたメカニズムではありますが、ひとまずエリアを抜きにしてパラメータの上位入賞者だけが報酬を得るメカニズムってそれ以前にもありますよね。『カタン』の道賞とか騎士賞とか。
 なのでこの記事におけるマジョリティの定義は「ある一つのパラメータの上位数名に報酬が与えられる要素」とします。エリアマジョリティはその派生系という扱いです。
 ぼくはゲーム史には詳しくないのですが、有名ドコロを遡ってみると『アクワイア』の配当がこの辺をかなり意識していて、株式の原理的には株数に応じて払われなければならない配当が1位2位の株主にしか払われないというゲーム的なデフォルメがなされています。その意図は何かと問われれば「なんとしてでも上位に食い込まなければならない」というプレイヤーの競争心を煽ることなのは明白で、ここにマジョリティの意味とか効用とかを見出すことは難しくはないでしょう。

・マジョリティの効用とは?
 マジョリティの効用の一つは先ほども触れた通り、プレイヤーの競争心を引き出すことです。そのためにマジョリティは上位入賞者にしか報酬が与えられないというイビツな報酬体系を備えています。
 で、その他の効用については、『エルグランデ』の話をするのが一番手っ取り早いのでそうするんですが、『エルグランデ』にはマジョリティを競争するパラメータ、すなわちエリアが幾つもあります。一つではなく複数あるというのが割と重要なところで、『エルグランデ』のマップがエリア一つで構成されていたら全員がそこに全キューブを置くだけのシロモノになってしまうわけです。まあ、『エルグランデ』ほどのゲームだとそれでもアクションカードの効果や使用順の絡みで何かしら別のゲーム性を見いだせるかもしれませんけど。王様のエリアにはそもそもキューブ置けないだろって話もありますけど。

 さておいて、エリアが複数あるということは、手持ちのリソースは有限ですから、どこにどれだけのリソースを注ぎ込むのが最善手なのか、その辺を考える余地が生まれるわけです。勝ち方のコツとしては「勝てるところは髪の毛一本差で勝つ、負けるところは見向きもしない」が望ましいということです。一つのエリアに全戦力をぶっ込んで、それで首尾よく勝てました、というのは裏を返せば他のエリアでは苦戦を免れないということです。
 これはいい勝ち方と悪い勝ち方がある、つまり「勝ち方にも巧拙が出る」ということで、ただただ全力を尽くせば勝てる勝負とは問われる能力が違ってくるわけです。「いっちょ噛み」と呼ばれる最小労力で得点を取るテクニックが好例でしょう。
 マジョリティは多面差しになることで勝つ場所と負ける場所を分けて手持ちのリソースを無駄なく使う能力、つまりマネジメント、リソースのマネジメントを競うゲームになるわけでジレンマの数が一つ増えるわけです。
 逆に言えばリソースマネジメントとしてのマジョリティ要素をゲームに持ち込む際は、ただ全力で1位を取るだけのゲームになっていないか、気を払う必要があるということです。マジョリティを競うパラメータを複数用意することはそうした問題を解決する手っ取り早い手法の一つと言えます。

・トップ叩きとコスト圧縮
 もう一つ、マジョリティの効用として「トップ叩きができる」という側面があります。
 プレイヤーの視点から言えばトップ叩き可能なゲームは毀誉褒貶相半ばではあると思います。ゲームの前半で飛び出したプレイヤーが回りのプレイヤーにボコられる。結果的にゲームが萎縮した、一直線に勝利を目指さないことが勝利に近づく直感的ではないシロモノにもなりかねないと。
 特に近年のゲームは露骨なトップ叩きの要素を控える傾向もあり、概ねそれはプレイヤーの性向とも合致するように思います。個人的な趣味を言えば、ぼくはトップ叩きの露骨なゲームはあんま好きではありません。『エルグランデ』なんかは今の基準からするとトップ叩きが凄まじく苛烈な乱暴極まりないゲームだと思っています。

 ただ、作る側の視点から言えば「トップ叩きができる」のは極めて利の多い選択で、バランシングに必要なコストを大幅に圧縮できるという側面があります。悪い言い方をすればバランス調整をプレイヤーにぶん投げることができるわけです。
 ゲームの最終盤まで全てのプレイヤーに勝ち目を残すこと。おそらくゲームを作る多くの人はこうした理想的な展開を盤上に再現しようと四苦八苦してると思いますが、それをプレイヤーに委託できればバランシングのコストは大幅に軽減されるわけです。
 で、これはマジョリティの報酬体系がイビツに作られているからこそ顕現する特徴で、例えば『エルグランデ』で「配置したキューブの数に等しい勝利点がそれぞれ与えられますよ」とルールを変更したらそれはトップ叩きの手段にはならないわけです。逆に言えばトップ叩きなんか好きくないという人、バランシングにかけるコストが十分にある人は、入賞の条件を緩めたりすることで自分好みに調整できるとも言えます。近代的なゲームは割とその辺でトップ叩きの明度を調整してる感はあります。

・マジョリティトラックとコスト圧縮
 バランシングのコストは圧縮できる。よしわかったそれじゃ『エルグランデ』みたいなゲームを作ってみよう、となった時。多分、真っ先に課題になるのは大量のキューブどうすっぺ、みたいなところになるかと思います。要は物理的なコスト、部材のコストですね。
 『エルグランデ』のようなエリアマジョリティのゲームだけではなく、マジョリティを競う多くのゲーム、『ベガス』でも『アルハンブラ』でもコンポーネントは必然的に増加します。そりゃ数の多寡を競うゲームなので局面のバラエティを生み出すためには一定数のコンポーネントが必要になるわけです。当然マジョリティを競うゲームは物理コストが重い、ということになります。

 が、これを軽減する手段の一つとしてマジョリティをトラック上で競うという手法があります。『テラミスティカ』の教団トラックとか『ツォルキン』の神殿トラックとか『ボラボラ』の神殿トラックとかです。なぜか宗教関係が多いですが、敬虔な信徒にのみ恩恵を与える神様の割りきった性格とマジョリティの残酷性がマッチしているんでしょうか。
 で、こうしたトラック上で競うマジョリティなら各プレイヤーの識別のためのキューブなりディスクなりが1つずつ、あと肝心のトラックがあればいいわけで、部材のコスト圧縮が狙えます。一方でエリアを埋め尽くすかのように配置された大量のキューブが醸す迫力みたいな視覚に訴える効果には欠けるので、その辺コストと見栄えはトレードオフでもあります。ただ、マジョリティの仕組み自体は変わらず成り立つと。ここも予算と相談して調整できる部分と考えてよいでしょう。

 最近出たゲームで言えば、『メディバルアカデミー』がトラックを使ったマジョリティのゲームとして教科書的な作りをしています。このゲームはマジョリティの扱いを一通り網羅してるので、このゲームを例にもうちょっとマジョリティの特徴について突っ込んでいきます。

・メディバルアカデミーに見るマジョリティ
 『メディバルアカデミー』は7つのボード、つまりパラメータをそれぞれマジョリティで競うゲームですが、ボードを大別すると「上位入賞者が勝利点が貰えるボード」「下位入賞者が勝利点を失うボード」「勝利点は貰えないが他のマジョリティを有利にできるボード」の3つに分けられます。もう一つ「順位に関係なくパラメータに応じて勝利点を得られるボード」もあるんですが、マジョリティとは関係ないのでここでは触れません。
 これは「誰が勝利点を得るか、あるいは失うか」という分類です。クニツィアが自著『ダイスゲーム百科』で「ゲームの目的を逆にすることは、特に運のゲームをはじめとする多くのゲームに応用できる一般的な原理です」と語るように「上位入賞者が報酬を得る」マジョリティという仕組みも「下位入賞者が罰則を受ける」逆マジョリティという形に応用できます。人間の心理として何かを得るよりも何かを失う方がよりインパクトが大きいので下位入賞者へのペナルティという要素は白熱した競争を生み出します。上位入賞を見込めないパラメータは捨てるのがマジョリティ争いのセオリーですが、この「逆マジョリティ争い」ではそうした負けを受け入れる不動の心を時に揺らがせに来ます。追走を諦めてしまえばそれは先行しているプレイヤーをラクにさせてしまうからです。
 一方で先行しているプレイヤーは後続の追い上げがないか気配を探りつつ、さらに安全な場所まで逃げるべきなのか、それとも余力を他に回すべきなのかの判断を常に迫られます。強烈に後続を突き放すことで相手の競争心を折る選択もあるでしょう。このように位置的には有利な先行側がむしろ気を揉む場面が多くなり、プレイ感はかなり異なります。

 また、「勝利点は貰えないが他のマジョリティを有利にできるボード」はマジョリティ争いの「後手有利」という重要なポイントを示唆してくれます。
 このマジョリティの上位入賞者は他のボードのコマを進めることができるのですが、下の順位からどのコマを動かすかを決定します。上位入賞者は先に動かしたコマを見ながら選択できるので、じゃんけんの後出しのように自分が勝てる手を選んで打つことができるわけです。
 そうでなくともマジョリティ争いは後手が有利な仕組みではあるので、その優位性、不平等を活かすか殺すか、ここでもゲームデザインの選択肢が生まれます。後手有利を貫いて手番争いに焦点を当てるのも一つのデザインでしょうし、先手の選択次第で後手の選択が狭まるようにしてそれぞれが番手に応じた戦略を立てるように導くのも一つのデザインです。
 このように『メディバルアカデミー』は多種のマジョリティ要素を織り込むことでインターフェースを統一しながら全く違ったプレイ感をゲームに備えることに成功しています。また「ゲームの目的を逆転する」という手法も発想法として大いに有用で、学ぶべきところが多いゲームと言えるでしょう。

・よりマジョリティを魅力的にするために
 なぜプレイヤーがマジョリティトラックを進めるのかと言えば、その先に待っている巨額の報酬を獲得するためです。逆に言えば「もう進めなくてもいいや」とプレイヤーに思わせてしまうマジョリティは筋のよくないマジョリティと言えます。
 とは言え、勝ち目が薄いとなれば気力を削がれるのが人間というもので、あるマジョリティトラックで他のプレイヤーに大差をつけられてしまえば気持ちも自然と諦めに向かいます。そうした諦めの心理を解消するための仕掛けが多くのゲームには施されています。
 マジョリティの報酬が与えられるプレイヤーは概ね上位の2人であることが多いです。これは2位争いに意味合いを与える側面もありますが、2位争いの加熱から1位を脅かす流れを生む仕組みでもあります。一見して1位に大差をつけられたとしてもコツコツと積み重ねていけば1位を脅かす位置にもつけられるわけで、まずはその気持ちを途切れさせないことを狙っているわけです。

 また、マジョリティの報酬とは別に報酬を用意するのもモチベを掻き立てる一つの手です。マジョリティの報酬はおおよそ決算のタイミングで支払われるものですが、それとは別に即時で支払われる報酬を用意する、例えばマジョリティトラックの3マス目まで進んだら即座に10金あげますよとか、5マス目まで進んだら新しい能力が開放されますよとか、そんな感じでマジョリティトラックを進めること自体にインセンティブを付加することでマジョリティ争いの進展を期待できます。
 決算のタイミングで報酬が支払われるということは、マジョリティ争いはゲーム的には概ね「大きな目標」として機能するということです。「大きな目標」はゲームの終着点、方向性を指し示す大事な役割を持ちますが、間際になるまでプレイヤーの意識が届きにくく重要性に比して軽く捉えられがちでもあります。なのでマジョリティ争いに「小さな目標」を与えて「大きな目標」へと導線を作ることは、プレイヤーがゲームを正しく理解する一助になりえます。

 『テラミスティカ』で言えば、教団トラックは最終的なマジョリティ争いだけではなく、マス目ごとのパワー獲得、ラウンドごとの教団ボーナスと言った「小さな目標」が別途用意されています。この教団トラックという要素、陣取りのメインボードと比べてどうしても華やかさに欠けるので存在感を押し出すためにこうした補助輪が用意されています(が、そうした細々とした要素のせいで「宗教系種族は面倒くさそう」と思われがち)。
 教団トラックにはフォローが手厚く用意されているのに比べて、『テラミスティカ』のもう一つのマジョリティ要素であるところの建物の連結数に関してはさほどフォローがありません。それというのも土地を改良して建物を置いてリソースを得るという一連の動作が既に「小さな目標」として十分に機能しているからで、そうなればプレイヤーは自ずとマジョリティを競う土俵に上がるのです。

 また、ゲーム開始時点でプレイヤーに「はじめの一歩」を与えるのもマジョリティ争いにモチベーションを持たせる手法になりえます。『テラミスティカ』は最初の種族選択によってそれぞれゲーム開始時に教団トラックを数歩進めた状態でスタートしますが、他のプレイヤーより一歩先んじてるのであればそれを有効利用しなくては、という心理が働きますし、追い抜かれた時もナニクソと思いやすいのです。これ、割と大事なところで、マジョリティ争いで一番感情が揺さぶられるのって誰かに抜かれた瞬間なので、抜きつ抜かれつが頻繁に起こるようなデザインが望ましいのです。そして誰かが一歩目を進めないことには順位の良し悪しが生まれないので、それなら最初に一歩目を与えてしまえ、というのは合理的な考えでもあります。

 いずれにせよ、マジョリティトラックを用意したのでさあ走れと命じてもプレイヤーはマジョリティトラックを走るのがどれだけオトクなのか直観を得られずこちらの思うようには走ってくれません。それよりも走るための動機付けをしてあげるのが親切な上に話も早いのではないかと思いますし、そうした報酬のデザインがゲームを作るという行為の最たる部分ではないかと思います。

・まとめ
 そんな感じでここまでマジョリティの諸々に触れてきましたが、肝心のマジョリティ自体のデザインについては時間の都合もあって書いてません(書けてません)。得点形式、同点の処理、決算の頻度、報酬などがそれに該当するんですが、こうした部分はどちらかと言えば「表現したいゲーム像」を先に規定してそれに応じた形に落としこむという流れになるので、それぞれゲームによる、という言い方になってしまうんですね。

 例を一つ上げると『ネイションズ』はラウンドごとの歴史イベントカードにマジョリティ要素があるのですが、その内容は「1位のプレイヤーが報酬を得る」「最下位のプレイヤーが罰則を受ける」の2つが組み合わさったものになっています。で、このゲームの同点処理、つまり「1位が2人いたらどうするの?」というマジョリティ要素のあるゲームでは避けて通れない問いかけに対して「同点1位は全員1位扱いしない」つまり「誰も報酬を得られない」という規定を出しています。そして同時に「最下位が2人いたらどうするの?」という質問に対しては「全員を最下位として扱う」つまり「全員が罰則を受ける」という規定になっていて、このゲームのマジョリティ争いは「報酬は得づらく罰則は食らいやすい」という地獄のような構造になっています。いや、そこが面白いゲームではあるんですが。
 これはまあ『ネイションズ』の作者が、「このゲームはこれくらいシビアなゲームだよね」って気持ちで多分そうしたんだと思うんですが、そんな感じで作り手の気持ちというか好みを反映していると思います。

 なんというか、そういう意味では文中でも何度か「マジョリティ要素はコストが低い!」って書いたんですが、もっと正確に言えば「マジョリティ要素は弾力性が高い」もっと俗に言えば「予算に応じて仕様を変えられる」ということで、自分好み、できる範囲に応じて活用できるのがマジョリティ要素なのではないかと、そういうことをぼくは言いたかったのではないかと思うのです。多分きっと。
 まあ、その辺に個性が出る、個性が出しやすい、というのが多くのゲームでマジョリティ要素が取り入れられてきた理由でもあると思いますし、基本的な要件こそ『エルグランデ』なり『アクワイア』なりで確立した要素ではありますが(『アクワイア』に至っては50年前のゲームですよ)まだまだ開拓の余地が残されているのではないかと思います。最近では『モンバサ』のマジョリティを取ってないと使えないアクションスペースという使い方がすげーいいなーと思いました。『コリョ』も似たようなところがありましたが。

 そんなところで。
posted by 円卓P at 21:14| Comment(0) | ゲームデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月22日

トスのインタラクション

 この記事は、Board Game Design Advent Calendar 2014 の22日目の記事として書かれました。

 どうも、数寄ゲームズの円卓Pです。なんかボードゲームの動画とかポッドキャストとか色々やってます。秋ゲムマでは姫騎士逃ゲテ〜というゲームを出展しました。
 来年も大阪ゲムマでも鍋野企画さんと一緒に出展予定ですので、お見知り置き頂ければと思います。

 という感じで、今日はドイツゲーム特有? ドイツゲームっぽいインタラクションの話をちょっとしようかなと。

 さて、ぼくは自前でボードゲーム数寄語りというポッドキャストをやっているんだけど、ゲストとして出演して頂いたゲーム作者の方に「ドイツゲームは遊ばれますか?」と聞くと、「ほとんど遊ばない」という答えが返ってくることもあって驚かされたりする。
 と言っても具体的な件数を挙げると2例だけなのだけどw ただ、ぼくの中では同人とは言え自前でゲームまで作ってしまおうという人はよっぽどドイツゲームにどっぷりなのだろうという思い込みがあったので、この返答は衝撃的ではあったのだ。

 今の同人ゲーム界隈はその出自がドイツゲームだけに限らず、TCGやTRPG、コンシューマ、ゲームブック、果てにはマンガ、小説、イラスト、演劇、ゲームですらないありとあらゆるエンターティメントのバックグラウンドを持つ人々が集まっている印象がある。まあ、それは熱に浮かされたゴールドラッシュ的な活況でもあるんだけど、同時にとても密度の高い空間でもある。当のぼくも鉱夫の1人と言って差し支えない。
 なんというか、映画を志した若者が夢破れてアニメやゲーム製作に流れて、そこから多様な文化が育まれていったように、爛熟の揺り籠となる文化の交雑を今のこの界隈からは感じたりする。任天堂の宮本さんだって子供の頃はマンガ家を夢見ていたのだ。
 そういう意味で、この辺はこれから5年後10年後が楽しみな界隈だ。飽きっぽいぼくがこの界隈に身を置いているのも、なんとなくこの金鉱に夢があるように感じられるからではないかな。という表現は、ちょっと露骨過ぎるかもしれないけどw でも、夢を見られる空間は居心地がいい。

 で、作る側の出自がそれぞれだからゲームの文法もそれぞれで、却ってドイツゲーム文脈のゲームなんて(今では?)少数派なくらいなんだけど、ぼく自身の好みはドイツゲーム寄りなので現状の分布だとドイツゲーム文脈のゲームを探すには若干苦労する。ドイツゲームでなければイカンと堅苦しいことを言うつもりはないし、どんな文脈のゲームが流行ってもいいんだけども、ドイツゲーム文脈のゲームは埋もれてしまっているように感じることは多い。作る側となると指を折って数えるほどだし、その中で面白いゲームを作れる人となると希少性さえ生まれるw
 多分、現状では他文脈の出自のゲームの方が平均的に「こなれている」。ただ、それはドイツゲームのポテンシャル自体が低い、ということではなく、単純に馴染みが薄い、人口が少ない、研究が浅い、ということなんだと思う。

 とは言え、層が薄いのは翻って言えばチャンスでもあって。今年はニューゲームズオーダーがモダンアートや交易王と言ったクニツィアの諸作をリメイクした年ではあったのだけど、それらは新しいプレイヤーにも愛好されている……印象がある。この辺、具体的な数字を示せないので断言はできないのだけど。
 クラシカルなドイツゲームの作風はむしろ新鮮なのだ。ぼく自身もそんなドイツゲームの風に引っ張られてきたクチなので、そういうゲームが増えることを願ってやまない。

 なので、遊ぶ側としてはドイツゲームをぜひぜひ作って欲しい。だけども、作る側としてはドイツゲームの美しさを真似るのは結構難しい。
 感覚としてはわかっていても、実現には苦慮する。なので、今日はその仕掛けの一つを紐解いてみたい、というのが本題だ。
 これから書くことは昔からドイツゲームを愛好している人にとっては物凄く当たり前のことだと思うけども、ぼくはこれに気づいて、そーだったんだ、と思わず膝を打ったのだ。
 なにせモダンユーロの流行はそこから更に一歩も二歩も進んでいる。ちょっと昔の流行はなかなか顧みられないものだ。
 なので気づきが遅れたんだ、と言ってもこれは許して貰えるのではないか。と、言い訳はこの程度にしておいて。

 物凄く極端なことを言ってしまえば、それはインタラクションのあり方なんだけど、クラシカルなドイツゲームを倣うのに一番手っ取り早い方法は「トスすること」だと思う。
 この「トス」という概念は他のゲーム文脈にはあまり見られらないものではないか。バレーボールでいうところのトスを上げて他のプレイヤーにアタックして貰う、そんなインタラクションだ。

 TCGで意図せず相手のコンボを成立させてしまう「友情コンボ」という用語があるけども、それに近い。
 ただ、基本的に2人用対戦ゲームであるTCGではトスなんかあげたらゲームには負けてしまう。当たり前だ。
 でも、マルチゲームなら、自分が相手にトスを上げるのと同様に、対戦相手Aから、Bから、Cからトスを貰う機会がある。トータルで誰よりもトスを貰っていればそのゲームに勝てる。
 交互にトスを上げながら時にアタックする。それがぼくの考えるクラシカルなドイツゲームの姿だ。

 で、トスは「相手を勝たせる」インタラクションだから、前提がもう既に不条理だ。だからこそ、その存在だけで猛烈なジレンマが生まれる。その例をちょっと挙げよう。

 コロレットでスタートプレイヤーが虹色のカードを引く。「あっ」と誰もが息を呑むこの光景はトスのインタラクションのわかりやすい一例だ。
 このリスクがあるからコロレットはカードを引くのに躊躇う。しかし本質的には「トスが上がってしまう」ルールになっているから、なるべく相手の受けづらいトスを上げる、相手をなるべく儲けさせない動きになる。

 ゲシェンクは失点カードを取らされるゲームだ。ただ、得点チップを1枚場に出すことで失点カードを次のプレイヤーに回すことができる。
 次のプレイヤーも失点カード(と溜まった得点チップ)を取るか、得点チップを出すか、その選択に悩まされる。ただ、状況としては前のプレイヤーよりも「分がいい」し、得点チップを出して失点カードを回せば、次のプレイヤーは「もっと分がいい」状況になる。
 これは最悪の状況を先延ばししながら折り合いをつけるゲームなのだけど、これで題名がゲシェンク(贈り物)なんだから、まったく皮肉が効いているw

 こんな感じでトスのインタラクションはとても迂遠でいやらしく、ジレンマを生む活力として大いに機能する。ただ、トスにも一つ弱点がある。
 それはわかりにくい、ということだ。コテコテの京都人の悪口くらいわかりにくい。
 直接攻撃の方がわかりやすし、見た目にもハデだ。何より人は得よりも損に敏感なのだ。なので基本的に人から貰ったトスはありがたみが薄い。
 ケイラスで、自分が建てた建物の使用料1点2点よりもその建物自体を使いたいという感覚も近い。実際には結構なトスを貰っているんだけど、先に使われて損した感覚の方が強かったりする。
 だからゲシェンクはトスと損がセットになっているところが白眉だったりする……というのはちょっと話が逸れるんだけど。

 で、面白さとは密度だ。この不明瞭なトスというインタラクションの解像度を上げるには、一手の重みを強めるのが有効だ。
 コロレットは列に並べるカードは3枚までという制限がある。1枚のカードを置くだけで3分の1の可能性を潰してしまうのだから、その一手は重い。
 ゲシェンクの手番1回は軽い。ただ、手番はチップを1枚出すだけという強烈な手軽さがある。-35点のカードが見る間にチップで埋まって判断の問われる重い一手のタイミングがすぐに到来する。これも密度を高める仕掛けだ。

 あと、インタラクションのわかりにくさをごまかす手法としてはキャッチーなテーマを被せる手もあったりする。そういう小細工の方がぼくは得意と言えば得意なんだけど、ちょっとゲームそのものから離れすぎるのでここでは触れない。

 とまあ、そんな感じで。
 直接相手のリソースを削る・奪うインタラクションと比べるとトスのインタラクションは眠気を催すほど緩慢なのだけど、この回りくどさこそがドイツゲームの味を構成する調味料の一つではある。
 よく使われる意味の分からない、でもなんとなくわかるニュアンスの言葉、「切れ味」という用語があるけども、これはゲームに「切れ味」を備えるための一つのアプローチではないかと思う。

 例えばモノポリーなんかはぼくからすると直接的すぎるインタラクションのゲームではあるけども、あのインタラクションはとてもわかりやすい。そういう強みがある。で、ドイツゲームはその対極に位置するものだ。
 わかりにくい道を敢えて行こうとするのだから、この道は茨の道だ。日頃からドイツゲームを堪能する諸氏ならお分かり頂ける通り、面白いドイツゲームを作るのはとても難しいw
 そう脅かすと、やっぱりドイツゲームは避けよう、と思われてしまうのかもしれないけどw まあ、チャレンジしがいのある分野だとは思う。

 秋ゲムマの中では海底探検がドイツゲームの匂いが強いゲームだった。ああいうのは好きだなあ。


 そんなところで。
 だったら自分で作れば、という声には、善処します、という誠意ある態度でお応えしようかとw
 東京ドイツゲーム賞の第2回目とかないんですかね。そしたらそれから考えようw
posted by 円卓P at 20:34| Comment(0) | ゲームデザイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする