デッキ構築ゲームの私的史観の後半です。前編の内容の振り返りとしましては、ユーロによるデッキ構築の解釈は山札とドローの排除という流れを導いたとしました。
で、ここでデッキ構築ゲームの引用元のTCGについてもちょっと触れておきましょう。
TCGはデッキ構築技術を競う盤外戦とプレイ技術を競う局地戦の前後編で構成されたゲームです。なので実プレイが始まる前段階で勝敗の帰趨は概ね決しているワケですが、そこをひっくり返す要素としてドローというミニマルなギャンブル要素、戦場の霧のような不確定要素を盛り込んでいます。
ドローはまさにTCGの華というかハレの部分で「俺のターン、ドロー!」とか「ディスティニードロー!」とかのセリフの威力が示す通り、自分が欲しいカードを引き当てるドローの魔力、引き運の魔力はTCGの快感の中核を成すものです。麻雀のツモも似たようなところがありますが、TCGの場合、カードは全て自分が選んでデッキに入れたものなのでドローの成否がより自分に帰属するように感じられます。
で、デッキ構築ゲームの祖たるドミニオンはTCGの盤外戦と局地戦を並行して進めるようなゲームなのでその快感もドローに立脚しています。デッキ構築ゲームは計画性を重視すべく基本的なTCGのデッキ構成枚数60枚や40枚と比べてグッとシェイプされているのですが、TCGよりも遥かに高密度にドローを繰り返すゲームですからドローへの依存はより強まっていると言えます。
それにも関わらず後続のゲームがそうしたドローの魔力を真っ先に取り除こうと試みたのは意外なアプローチに思えるかもしれません。しかし、その先駆けを探ってみると、まさに始祖であるドミニオンの内部に烽火の種火が仕込まれていたことに気づかされるのです。
そもそもドミニオンの基本コンボとしてデザインされた村+鍛冶屋はカードを全て引ききって少枚数デッキに残された僅かなランダム性すら支配してしまえという暴虐極まりない提案だったのですが、これがまた実際試してみるとプレイヤーに圧倒的な全能感を抱かせる愉悦と快感に満ちていたワケです。基本セットの強力カードであるところの礼拝堂も構造としては同じでして、蓋を開けてみたらプレイヤーは程よいランダム性による感情の振幅を楽しむよりもランダム性そのものを支配することに熱中してしまったのですね。
ドミニオン以降、様々なデッキ構築ゲームが生まれたワケですが、デッキ枚数を少なく調節してドローからランダム性を取り除く「デッキ圧縮」は一貫して強戦略でした。
それって言わばダイスゲームで一人だけグラサイを振るようなもんです。そりゃそれぞれのゲーム性の違いなんか無視して単純に強いワケですよ。
なのでドミニオンはデッキ構築という新しいランダマイザの始祖であると同時に、ランダマイザの行き着く先まで単独で消費してしまったゲームでもあったのです。世界初の手品を見せておまけにタネまで明かしてしまったのです。……なんというかあらゆる意味でエポックと言わざるを得ないゲームですよね。
で、そうなるとドローの魔力は競技プレイヤーにとってむしろストレスに働く側面が強くなります。こうしたプレイヤーのマインドを端的に示すのが「ドミニオンは運ゲー」という表現でして、運の働く回数が限りなく少なくなってしまったがために、却って運の影響が極大化してしまったワケです。サイコロを100個振るゲームではなく、サイコロを1個振るゲームになってしまったと。
だからこそ後続のゲームが既にデッキが圧縮された地点、ランダム性を取り除いた地点から競技を始めるデザインに寄せたのは往時のプレイヤーの要請に応えた側面もあったワケです。
しかし一方でそれは競技性に傾斜しすぎた進化であったのかもしれません。……と歴史を振り返る立場からは軽々に言うワケですけども。
計画性と戦略性を得た代わりに射幸性を捨てた後続の戦略ゲームは一方で多くのプレイヤーに愛される一般性を自ら手放したとも言えます。その顕著な現れが2013年のデッキ構築ゲーム群だったワケですが、さて、そこからデッキ構築ゲームはどのような変遷を辿るのか、というのが後編の次第になります。長い!
・オルレアン(2014)
正直な話、ここまで長々と綴ってきた前置きは全てこのゲームを語るための枕です。結論から言えばデッキ構築を巡るランダム性の様相に一つの回答を出したゲームがオルレアンと言えます。運要素の観点から言えば、2013年のゲーム群の方向性とは異なり、オルレアンはドロー運が介在するゲームです。しかし、そのランダム性の関与に対して、作者ライナー・シュトックハウゼンは限りなく緻密で周到な仕掛けを施しました。そこにこのゲームの真価があります。
オルレアンは一般的なカードデッキを用いるゲームではなく、様々なチップを袋に入れて取り出すバッグビルドのゲームです。前編で触れたパズルストライク(2010)の遺伝子を継いだ……のかどうかは定かではありませんが、インターフェースとしては同郷のゲームです。
バッグの利点はパズルストライクの項目でも述べた通り、リシャッフルの手間が省ける点が大きいのですが、もう一つ大きなボーナスとしてデッキの中身を覗ける点が挙げられます(もちろん同じことはカードデッキでも理屈としては可能ですが直後にシャッフルを挟む手間が必要になるでしょうし、あるいはそれは公平なゲームプレイに疑義を呈するかもしません)。これによってプレイヤーは視覚から次のドローの成功率を把握できるため、ドローの良し悪しに納得感を得られるようになりました。また新しいチップを得る際にも袋を見て以後のドローの計画を立てられる利便性もあります。デッキの中身を可視化することで計画性が格段に高くなったのです。
で、なぜかこの時期同種のバッグビルドのゲームが立て続けに生まれました。ヒュペルボレア(2014)やキングスポーチ(2014)の名前が挙げられますが、オルレアンはその中で最も成功したゲームと言っていいでしょう。
とは言え、オルレアンのバッグビルドは他のバッグビルドと違って明確な参照先がありまして、それは同作者の手によるボードゲーム、シベリア(2011)です。オルレアンはボードに示された各種アクションを実行するためにコストとして支払うチップを袋から引くゲームなんですが、そのエンジンはシベリアから引き継いたものです。
しかし、この2作には決定的な違いがありまして、オルレアンでは各プレイヤーに1つずつ用意されている袋が、シベリアではプレイヤー全員によって共有されています。このランダマイザの共有と私有の違い、たった一行で表現できるほんの僅かな違いは、しかし、ゲームデザインとしてはあまりにも大きな違いでもあります。オルレアンで袋を個別に用意したことでプレイヤーは初めてランダマイザを管理する権利と責任を得たのです(先述のドローとツモの違いとも被る話ですね)。
そうした変遷を踏まえた上でオルレアンのバッグビルドの特性について触れると、個別のアクションはカードに属するのではなくボードに属していて、それらアクションを実行するためのコストとなるチップをドローさせる点が白眉です。構造からしてチップの独立性が抑えられているため、ドローの偏差が抑えられてプレイが安定するワケですね(例えばドミニオンだとデッキに1枚ある金貨をドローしたラウンドとドローできなかったラウンドの差が極端に激しくなるワケです)。また、各種チップの中には特殊能力によって置換可能なものもあり、これもまたドローの安定性を導いています。オールマイティに使えるチップなんかもあります。
もう一つ、オルレアンはデッキ圧縮というデッキ構築の鬼門に対して自ら距離を取るのではなく、逆に圧倒的な肯定をもって迎え入れてしまった点が極めてユニークと言えます。オルレアンではデッキ圧縮を行うとむしろ報酬としてリソースが貰えます。この逆転の発想はこれまでのゲームには見られなかったものでした。
結果、どうなるかというとよりよい報酬を巡ってデッキ圧縮の競争が始まります。また、デッキ圧縮の回数はプレイヤー全員で共有していることもあり、デッキ圧縮アクションの早取り競争が展開されます。そして全てのデッキ圧縮アクションが使い切られてしまったら、もう誰もデッキ圧縮を行うことはできません。
オルレアンのインタラクションはそのほぼ全てが早取りによって形作られています。デッキ圧縮もその中の一要素として組み込まれていて、オルレアン全体としてはどのアクションをどの順番で取るのか正しいのか、プレイヤーに都度判断を求めるゲームに仕上がっています。
例えば、ドロー力の強化もその一つです。従来のデッキ構築ゲームにおいてデッキ圧縮が強力だったのはプレイヤーのドロー枚数が固定だったことが理由の一つとして挙げられます。オルレアンでは特定のアクションを実行することにより永続的なドロー力の強化が可能で、それによりデッキ圧縮の優位性が従来のゲームよりも抑えられています。
という感じでランダマイザの扱いに関しては数々の工夫が凝らされたオルレアンは、自分だけのエンジンを改良して乗りこなしていく楽しさに満ちています。繰り返しになりますが、このゲームはデッキ構築の一つの到達点と言っていいでしょう。
この記事で一点欠けている箇所があるとすればオルレアンの後継作であるアルティプラーノ(2017)をぼく自身が未プレイということでしょうか。本格的な国内流通が始まって早く遊べる日をぼくは待ち望んでいます。
・モンバサ(2015)
ドローの魔力を自ら捨てたユーロゲームはランダム性の代替となる次なる揺らぎを模索し始めました。
そこでプロット式のアクション選択要素を持ち出したのがモンバサです。事前にこのラウンドで使うアクションカードを複数枚伏せておき、全員が仕込み終わってからの一斉公開。プロット式のサプライズ性を加味して運要素の少ないゲームにつきものの手なり感を回避しようと試みています。
こうしたプロット要素を運と見るか読み合いと見るかは判断が難しいところですが、プロットを行う際にプレイヤーが選択するための十分なヒントが場に散りばめられているどうかは一つの判断基準と言えましょう。その観点ではモンバサは十分なヒントが用意されたゲームと言え、各プレイヤーが理性的に勝利を目指すのであれば適切な解答を導き出せるゲームになっています。
モンバサで特徴的なのはカード回収のメカニクスで、そのラウンドに使用した複数枚のカードはそれぞれが別個の捨て山を形成します。しかし、ラウンドの終了時にはどれか一つの捨て山しか手札に回収できないため、回収するカードの質と枚数で強烈なジレンマを覚えさせる作りになっています。
先の展開が見えすぎているがゆえに2手3手先を読んで判断を下さないと簡単にデッドロックに陥るマネジメント色の極めて高いゲームで、モダンユーロとしては珍しい相乗りの得点形式と合わせて独特なプレイ感を備えています。モンバサは様々な工夫を凝らしたメカニクスが多く搭載された意欲的なゲームではあるのですが、それら全てに触れるのは本旨から離れすぎるのでこの記事では割愛します。
・フードチェーンマグネイト(2015)
モンバサと同様にデッキ構築にプロット要素を組み込んだ拡大再生産のゲームです。アクション選択のインターフェースこそモンバサに似てはいますが、ゲームの要はまったく異なっていて、目先の利益のために社員を働かせるか、それとも将来の利益のために社員に休暇を与えて教育を施すかで頭を悩ませる硬質なマネジメントのゲームです。あとまあ、プロットの結果で手番順の後先が決まる要素もあるんですが、やっぱり中心は社員の活用と育成ということになります。
モンバサもそうなんですが、このタイプのゲームでは1ラウンドで何枚のカードが使用できるかというアクション数の増加がダイレクトに拡大再生産感を演出していて基本的に質的拡充を目指す正統派デッキ構築に対して量的拡充を目指す戦略ゲームという趣の差異があります。これはデッキ構築ゲームが本来的に視覚を重視しないゲームだったことが大きくて、つまり一番最初のデッキとゲーム終了時のデッキでは見た目で厚みしか違いがないのに比べて、ボードやコマをふんだんに使用した本格ボードゲーム(この微妙な言葉の選択……)ではその辺視覚的に拡大再生産の実感を味わえるという違いがあります。俗な言葉を使えばインスタ映えするか否かという話でして、ドミニオンはバッサリその辺をカットした潔さから始まったのですが、後年になってやっぱり見た目とかコンポーネントの贅沢感も大事なんじゃねえのという方向に舵を切ったりもしています。繁栄拡張の各種トークンとかめっちゃ豪華ですよね。
フードチェーンマグネイトについては同社のインドネシア辺りとの比較として、プレイヤーが新しく獲得する特殊能力が社員カードというインターフェースに統一されている点がテーマと合致しつつもスマートさを備えていて素晴らしいとか色々と語りたい点もあるのですがこの辺もデッキ構築の話とはズレるので割愛します。というか、この辺のゲームになってくるとデッキ構築はゲームの主要素というよりはサブメカニクスの一部に後退するのでデッキ構築だけを語ってもそのゲームを語ることはできないのですよね。
まあ、個別のタイトルについてはレビューなりなんなりを見れば詳細に語られているのでそれを見てどうぞということで。
・グレートウェスタントレイル(2016)
前項でデッキ構築ゲームのサブメカニクス化という話をしましたが、まさにその一つの極致となったのがこのゲームです。これまでのデッキ構築ゲームは大なり小なりエンジンとしてデッキを用いていましたが、グレートウェスタントレイルのデッキは完全にエンジンから切り離された存在になりました。ゲームの主要な要素はロンデルシステム的なアクション選択システムで、デッキ構築は言わば逆セットコレクション要素とでも言いましょうか、手札の種類をバラバラにすることを目指すサブメカニクスです。まあ、目的が真逆なだけでやることが手札のマネジメントであることには変わりないんですけども。
ドミニオンに例えると言わばお金カードしかないデッキ構築で、相当珍妙な試みに挑戦しているんですが、デッキの残り枚数と構成を計算して手札を揃えていく(バラバラにする)感覚、ドローに一喜一憂する感覚は、なるほどデッキ構築のそれで違和感がないんですよね。ちまちまとしたマネジメント感覚とドロー運の絶妙なバランスがデッキ構築の新たな一面を覗かせてくれます。
骨太なメインのアクション選択システムがあるのでデッキ構築部分は敢えて簡略化された作りにもなっているんですが、このサブメカニクスを主題化して一つゲームを作れるくらいには濃厚で贅沢な作りのゲームと言えましょう。
・エルドラド(2017)
レースゲームとデッキ構築を組み合わせたこのゲームは見た目からレミング(2014)のパクりじゃねーのと言われたりもしたワケですが、デッキ構築史観から言えばまず鮭の遡上(2013)のパクりじゃねーのと言っておかないといけないワケです。ちなみに鮭の遡上はプレイヤーが鮭になって産卵場を目指す楽しいゲームですが、まったく設計思想の異なるゲームなのでただの言いがかりです。
さて、エルドラドが果たしたデッキ構築史上の役割とは大元に立ち返ってデッキ構築をランダマイザとして最大限活用しようというデッキ構築のルネッサンスを提言した点にあります。デッキ構築を採用した様々な戦略ゲームはドローの魔力を排除するマネジメント路線を選びましたが、エルドラドの選んだ道はドローの魔力と共存するファミリーストラテジーへの回帰でした。一見してそれは旧態依然とした初期のデッキ構築ゲームと変わりなくも見えますがエルドラドにはクニツィアならではの工夫が随所に垣間見えます。
その手がかりの一つはデッキ構築のキーワードであるデッキ圧縮との対話、距離感の設定です。他のデッキ構築と同様にデッキ圧縮は有効な戦略ではありますが、エルドラドではそれ以上にレースゲームならではのライン取りをプレイヤーに要求するゲームでもありまして、序盤で足を溜めて最終コーナーで捲くるような大胆な追い込みは容易にブロックされる危険性を孕んでいます。クニツィアはデッキ構築の効率性を活かす前にゲームが終わる可能性を持たせることで、やんわりとこの戦略のナーフを図ったワケです。
また手札マネジメントにおいては全てのカードを0.5金として利用可能だったり、使わなかった手札を捨てずに残すことができたりとストレスを和らげる工夫が見られます。必要なカードが必要なタイミングで手札にある確率が高いのでデッキ圧縮の重要性が薄れるという側面もあるでしょう。
・ヴァレッタ(2017)
これまたエルドラドと同じくデッキ構築から運要素を残しつつドーラ風に再構築したゲームです。とは言え、手札が5枚、プレイするのは3枚、残った2枚は持ち越して5枚になるまでドローという形でドロー運の緩和を図っています。
最も特徴的なルールはゲーム終了のトリガーが引かれてから改めてデッキをリシャッフルしてデッキがなくなるまでアクションを行う点で、この簡潔なルール一つで過度なデッキ圧縮を抑制しています。とは言え基本的にデッキ圧縮が有用なことには変わりないデザインではあって、デッキ圧縮の快感を認めながらもランダム性を保持しようとする姿勢が窺えます。
……意外と書くことが少ないっすね。獲得したカードが直接手札に来るんでそこでちょっとしたマネジメント要素もあるんですけども、反面ダウンタイムも伸びるよねというところもあって、工夫を入れた部分がコアユーザー向けの視線なのがエルドラドとの方向性の違いでしょうか。
ということで駆け足でざっくりと2008年から2017年の9年間のデッキ構築ゲームの諸々を追いかけてみました。総括として、デッキ構築のランダマイザとしての働きに対し、それぞれのデザイナーが提言をぶつけていく、その中でデッキ構築が洗練されていくという潮流が見えたのではないでしょうか。
まあ、そういうアングルをぼくが恣意的に用いているので、そりゃそうなるよねという話はありまして。これはぼくがデッキ構築に限らずボードゲーム全般において運要素のあり方にデザイナーがどう自覚的であるかを相当強く見ているという個人的なゲーム観の反映でもあります。
なので異論反論というか、別異な史観も大いにあるでしょう。それはそんなものだと思っています。
この記事の前編の冒頭で、デッキ構築の歴史とはドミニオンの弱点を改めるアンチドミニオンの歴史である旨を書きましたが、2017年末の現在に至ってもその全てはまだ克服されてはいません。それはつまりゲームデザイナーにとって野心を掻き立てる沃野が未だ手付かずで残っているということです。いやはや、なんとも心躍る話ではないですか。
なのでゲームデザイナーの皆々様におかれましてはぜひともデッキ構築の新しい提案に挑戦して頂きたいと思うのです。そのためのアプローチの数々は文中でも示したとおりですし、まだまだ色々タネも残されていますもんで、やりようはいくらでもあるかと思います。1ゲームプレイヤーとして新しい提案の誕生に期待しております。という辺りで結びに代えさせて頂きたいと思います。
ということで、とりあえずデッキ構築史に関わる主要なゲームについては触れたつもりですが、一言言っておかないとなーと思うゲームはいくつかあるものでその辺はまた別記事で触れたいと思います。結局、年を跨ぐのかこれ……
2017年12月31日
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