2016年04月17日

夏休み大作戦製作記録 逆転要素とは一体?


 夏休み大作戦初期の仕様書。まだこの頃はテーマも乗ってませんでした。

 2段競りの思わぬ弱点、扱いにくさに気づいたぼくはその弱点をどう埋めるかについて検討せざるを得なくなくなりました。
 手法の一つとして、しかも、フォーセール2015の名に相応しい今風の解決策としてぼくが考えたのは、プレイヤーにそれぞれ固有の特殊能力を与えるというものです。それも「テラミスティカ」や「マルコポーロの足跡」のような非対称的でトリッキーな能力。非対称能力を駆使する競りゲーというのは、これはオリジナリティがある……!
 で、ぼくは非対称能力大好きっ子なので、この線は行けるぞ! とテンション高く結構な数の特殊能力を作っていきました。ゲームの開始時に10金余計に持ってる金持ちマンとか、誰かが宣言済みの競り値を同値で宣言できる後乗せマンとか、後半の競りで入札順を有利に変えられる後出しマンとか…… 全部で20種類くらい作ったと思います。
 こうした特殊能力が根本的に後半の逆転性に資するかというとこれは若干怪しいんですが、キャラの特殊能力をうまく活用すると勝てるゲーム、というのは競りゲー特有のソリッドさを緩和しつつ華やかさを演出してくれて、あからさまな負けゲーム感を薄めてくれるのではないか、という狙いがありました。負けたとしても「持ちキャラが弱かったんだよ!」という言い訳も立つワケで、リプレイアビリティの向上にも寄与します。

 ただ、実際、非対称能力を使ってのテストプレイをやってみたこともあるんですが、プレイしてみてこれには一つ大きな難しさがあるな、と感じました。それはプレイヤーがゲームに不満を覚えた時、その理由を特殊能力に押しつけがちである、というものです。
 ゲームの完成後なら、勝ち負けの理由を特殊能力に押し付けるのはなんら一向に構わないんです。むしろ特殊能力をそうしたスケープゴートとして使おうというのが意図の一つでもあります。
 が、テストプレイ初期の段階では、ゲームに対する不満の根本が特殊能力に起因するものなのか、それともゲームそのものの構造に起因するものなのか、切り分けが難しいんです。特殊能力のバランスを整えたら問題が解決するのかと言ったらそうとも限らないと。根本的な問題を放置したままバランスを弄っても、それは見た目を整えているだけで問題の解決には繋がりません。
 プレイヤー固有の特殊能力は華々しくはあるんですが、それだけに目につきやすく、全ての元凶がそこにある、と原因を誤解させやすい。ゲームの完成度向上に際して特殊能力の実装はただでさえ複雑な山頂への道をさらに枝葉で覆って見えにくくしてしまう恐れがあると感じたのです。
 なので、特殊能力を取り除いてもゲームの構造が堅固であること。そこに辿り着くまでは特殊能力に手を伸ばすのはやめよう、という判断に至ったワケです。でまあ、ゲームが完成する頃には特殊能力がなくても十分な面白さがあるぞ、と感じられたので、結局特殊能力はなくなっちゃったんですね。
 とは言え、今ちょっと企画を見返してみてもルールを突き破るハチャメチャな特殊能力の数々はワクワク感が大きいので、いつかは挑戦してみたい分野です。特殊能力のいいところは、「これ、実装するかどうか悩むなー」というクリティカルな仕様を気軽に放り込める点です。正規のルールとして組み込んでしまうとゲームの性格が大きく変わるような過激な仕組みでも部分的に取り入れることで影響を限定的に留めつつゲームの幅を広げられる。うまく使えばプレイ環境を豊かにする一方でルールの複雑化を招いたりと副作用も大きいのでこれは劇薬だなーという印象があります。

 で、ここまで特殊能力について話してきたんですが、結局この試行錯誤は完成形のゲームになんら寄与してませんw 結局、逆転性の問題はどうやって解決したのかという話をしなければなりません。
 そもそも逆転性とはどのように実装されるべきなのか。バラエティのクイズみたいに最後だけ得点100倍にするとかは物凄く簡単ですけど基本的には頼りたくない…… というか、頼らざるを得ない局面が来たとしてもなるべく後回しにしたいというか。こういうのをハイ逆転要素ですよってツッコんでしまうのは安易過ぎるというか、「あ、その安易さでいいんだ」って自分の美学を曇らせてしまうのではないかと思うのです。……が、ぼくは割と堪えの効かない性格なのでどこかで頼ってしまうかもしれません。今回は我慢しました。

 さて、フォーセールに立ち戻ってみましょう。フォーセールの逆転要素はつまるところ手札の同時出しによるアヤとお金カードのめくりです。強い家カードを持っていたとしても無駄に使ってしまう「かもしれない」。弱い家カードでもめくり次第で高値で売れる「かもしれない」。強い家カードを抱えていても使うタイミングが来ない「かもしれない」。
 「かもしれない」がとても多いことに気付きます。
 大事なことはこれらは直接的な弱者救済の手段ではないということです。設けているのは逆転できる「かもしれない」機会そのものであって、前半で不利を被ったプレイヤーは結局不利な手札のまま勝負しなければなりません。そういう作りなのです。
 そして、ドイツゲーム的な逆転とは、リソースから勝利点への変換にゆらぎを持たせる余地によって演出される面があるのではないか、とぼくは考えます。人より多くのリソースを稼いだところで、それを効率的に勝利点に変換できなければゲームには勝てない。このリソースと勝利点の変換過程にこそプレイヤーの手腕が滲み出る独特の味わいがあるのではないかということです。
 これは囲碁で言うところの「寄せ」の感覚に似ているかもしれません。手持ちのリソースを無駄なく使い切ること。端数が出るでもなく足りなくなるでもなくピッタリと。
 そうしたマネジメントの機微を制したプレイヤーが最も勝利に近い場所にいるようにゲームを組み上げること。テクニックを発揮する余地、反映する結果を作ってあげることが結果的にただのスピードレースではない豊穣な盤上の展開を生み出すのだと思います。それがこのゲームに相応しい逆転要素なのではないでしょうか。
 つまり挑まなければならないのは直線スピードだけを競うドラッグレースではなく、コーナリング技術を競うスラローム競技なのかなと。ただ高速でコーナーにツッコむのではなく、最短の経路と最適なスピードでいかにコーナーから早く抜け出すかを競う、これはそんなゲームであるべきで、そのためにはドライバーの技量を存分に発揮できるようなコースを設計しなければならないのです。

 で、それはどうやって……? という疑問を抱えて続きます。
posted by 円卓P at 23:07| Comment(0) | 夏休み大作戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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