心の底から、という表現は何も誇張ではなく、本気でぼくはそう思っているのです。というのは、この姫騎士逃ゲテ〜というゲームは、間一髪の差で現行の形でリリースされたと言っても過言ではない…… まさに今この形で皆様の手元に届いていることが奇跡かもしれないという、そういう複雑な道程を辿ってきたゲームだからです。
それを詳らかにするのは、ゲムマ前であれば購入頂く皆様に腹を決めて貰うための宣言だったんですが、所々の事情により今日の公開に至った今では、なんというか当時の出来事を振り返る側面が大きいのかなと思います。ちなみに執筆が遅れたのはひとえに「ゲムマ直前数寄語りやろうぜー」と言ってきたTakPのせいだと書き添えておきます。音声編集してたらテキスト書く暇ないやん……!
ただ、この出来事の記録なくしてこの製作記録に終止符を打つことはできないので、改めて今日ここでその経緯を書き出してみます。例によってえらい長文なので、根気のある方だけお付き合いください。
ロゴやカードデザイン、箱のデザインに至るまでを自前で片付け、なんとか目処の経った9月中旬以降、目下の課題はゲームの調整に絞られました。製造工程の問題が解決した以上、あとは時間いっぱいまで少しでもブラッシュアップを続ける。そういう時期になったのです。
テストプレイが最も盛んに行われたのがこの時期です。Vassalを使ったオンライン上でのテストプレイは蒼猫の巣のメンバーに入れ替わり立ち代わり参加してもらい、問題点を洗い出す作業が続きました。
コンポーネントの構成がほぼ固まってからは、リアルでもテストプレイを行います。が、こちらはぼく自身が進めることは少なく、これもまた蒼猫の巣のメンバーにカード構成のPDFと最新ルールを渡して、彼らの懇意のゲーム会に自作コンポーネントを持ち込んで貰うことが大半でした。なので、ぼく自身は現場の「リアルな雰囲気」に触れる機会が極端に少なかったとも言えます。貴重な生のテストプレイの機会を貰えたのは嬉しい話ではありましたが、正確なルール運用がなされているかさえもわからず、歯がゆい側面もありました。
そして困ったことにテストプレイの反応は概ね芳しくなかったのです。いや、概ね、という言葉は控えめすぎるようにも思います。もっと正確を期して言えばとにかくヒドかった。この時期、ぼくは吉報を人伝てに聞いた覚えがありません。
重苦しい沈黙にも似た時間と空間。オンラインのテストプレイからでもそれは窺えましたし、リアルなテストプレイの場では持ち帰られた報告の全てがぼくを失望させるに足るものばかりでした。端的に言って、このゲームはつまらなかったのです。
さて、皆様がテストプレイにどのような印象を持っているのかはわかりませんが、ぼくにとってのテストプレイとは一言で言えば「ぼく自身の価値観を破壊する作業」でした。映画「フルメタルジャケット」で有名なハートマン軍曹の練兵シーン。否定否定and否定で新兵の自尊心を粉々にする例のアレですが、テストプレイの光景はあれを間延びさせたものという感覚が最も近いです。
ボードゲームの製作者にとって、少なくともテストプレイにまで漕ぎ着けたゲームというのは、自身の価値観が少なからず投影されています。つまり、それを否定されるのは心理的に少なからぬ負担を伴うのです。
しかも、多くの場合、製作者にとってテストプレイヤーの声というものは理不尽なものです。製作者が色々なジレンマを抱えて下したディレクションをあっさりと否定する。「○○はこうしたらいいんじゃない?」という無邪気な提案に対し、製作者は「それをやったら全体が壊れるんだよ!」という叫びを押し殺している……こともあるのです。
とは言え、大抵のプロダクトにおいて、テストプレイでそのような凄惨な光景に出くわすことは少ないのではないかと思います。多くの場合、製品化まで漕ぎ着けたゲームは原石の輝きを秘めているでしょうし、もしくはその輝きさえ伴わないプロダクトはそうそうに遺棄され、次の挑戦に移るものなのです。
姫騎士逃ゲテ〜の製作過程において、おそらく最も特異な点があるとすれば、それはぼくがこのゲームの可能性に固執したことにあるのではないかと思います。人からすれば磨きようのない石ころを捨てずに懐にしまい続けたということです。妄執とさえ言えるかもしれません。
このゲームのコンセプトが早々に固まったことは以前にも述べた通りですが、ぼくにはこのコンセプト通りにゲームを構築すれば必ず面白いゲームになるはずだという確信がありました。それを捨てるという考えは一切なく、ただ、このゲームを磨くことだけを考え続けていました。
それがゆえに「他の案」というものは一切なかったんですね。元々平行して色々なプロダクトを切り回せるほどぼくは器用でもないですし、注ぎ込む余力もなかった。ゆえに一点勝負で進めるしかなかったんです。
この一点勝負の姿勢はイラストの発注やデザインの策定、納期が近づくことでさらに不退転の決意に変わっていきます。今になってのこの時期にまさかこの計画を捨てることはありえない。ぼくはもうこの段階で逃げ道を全て断っていたか、失っていたか、自律的か他律的かの違いはあるにしても、選択肢の全てを放棄していました。
そういう意味では姫騎士とは不幸な生まれの娘です。ゲムマに出展されるようなゲームの多くは「これ、面白いから出してみなよ!」と皆に祝福されて生を授かったゲームでしょう。それに比べると姫騎士は誰からも望まれていないゲームでした。唯一可能性を信じるのは親であるぼくだけですが、それはただの親バカです。この子は素晴らしい子でなければならないというエゴでもあります。
ただ、親からすると不出来な子供であってもそれはかわいいものなんです。まあ、ぼくは人の親になった経験はないんですけども、多分そうなんでしょう。
なので、テストプレイに纏わるぼくの見解の一つは、「ゲームを最も理解し、愛しているのは、やはり製作者なんじゃないか」ということです。そのゲームが抱える新規性とテストプレイヤーから的確な意見が聞ける可能性は概ね反比例するので、製作者はゲームの新規性、つまり我が子の素晴らしさを伝える努力を続けなければならないのだと思います。
テストプレイヤーにとって、ゲームは所詮人の子です。人の子には気軽に色々言えますが、親とは責任の重みが違います。責任の軽さから持てる視点も当然あるのですが、ゲームの根幹に対する意見は概して非現実的な提案になりがちです。そこまで忖度してくれる人も中にはいますが、忖度の度合いもこれまた時と場合によっては邪魔になるのです。
ゲームのことを最も知り尽くし、愛しているのはやはり製作者だと思います。だからこそ、製作者はその愛で我が子を守らなければならないのです。気を抜けば、妥協に身を委ねれば、我が子の姿は望まぬ悪魔へと変貌してしまいます。
そうなった時誰が責任を取るのか。結局は自分です。自分でしかないのです。であればこそ、製作者は否定の声に無条件に耳を傾けるのではなく、否定の声に疑問を投げかけ、我が子の理想的な未来を常に模索しなければならないのです。
拾い上げるべき言葉は「意見」ではありません。「不満」です。テストプレイヤーはこのゲームに「満足」しているのか「不満」を抱いているのか。それだけを知り得ればあとはテストプレイヤーが何を言おうが聞き流しても構わないとすら思っています。
具体的な話をすれば、姫騎士逃ゲテ〜の修正要項で最も多く上げられたのが「復讐」「数の暴力」に纏わるバランス調整の要請でした。が、製品版はその時とさほど変わらない構成になっています。つまり不要な(まあ、今も多少の検討の余地はあるでしょうが)カードバランスの修正を多くのテストプレイヤーはやり玉に挙げていたということになります。
不要な修正を彼らが要請したのは不見識からではなく、何か言わなければならない、ゲーム製作を前進させなければならないという責任感によるものです。そうした責任感は時に空転し、時に人心を惑わせるのですが、製作者はその声の底意をこそ見極めなければなりません。
場数を踏んだ製作者ほどテストプレイヤーの声を真正面からは受け止めず、その意見を言わせるに至った根本的な理由を考察するのではないかと思います。また、そうしなければ問題はいつまでも解決しないのではないのではないかとも思います。
プレイヤーは感覚的に、敏感にゲームの良し悪しを察知します。しかしながら、それが何に起因するものかは表層的にしか掴めていません。少なくともゲームの根本的な原因を探る手立てについては製作者の方がより真理に近い位置にいます。これは複雑なゲーム、新規性の高いゲームであればあるほどそうでしょう。
アイデアというのはなにか?
ぼくは任天堂の岩田社長の言葉をよく引き合いに出すのですが、今回この記事を読んで改めて感銘を受けました。ものづくりをする立場になると刺さる言葉がとても多いです。
この記事の中で岩田社長は「アイディアとは何か?」という話をしています。岩田社長はアイディアを「複数の問題を一挙に解決する方法」と定義しています。多くの場合、テストプレイヤーが寄せる「意見」というものは「一つの面倒を解決するための新しい面倒」であって、それを実装したらこっちがダメになるよね、って類のものです。
そして、重要な言葉がこれです。
たとえば、ある料理店で、お客さんが出てきた料理について「多い」と言ってる。
そのときに、「多い」と言ってる人は、なぜ「多い」と言ってるのか。
その根っこにあるものは、じつは「多い」ことが問題じゃなくて、「まずい」ことが問題だったりするんです。
これ、まさにその通りで、テストプレイヤーの多くは料理の「多さ」を訴えかけてくるのです。ただ、その「多さ」をちょうどいい塩梅に減らしても不満は続くはずです。なぜなら料理が「まずい」からです。
なので、料理人は料理のまずさをこそ改善しなければなりません。しかしながらそれは単純に量を調整するよりもよっぽど困難で険しい道でしょう。料理のまずさとは何か、という根本的な命題に立ち向かう必要がありますし、それがわかったとして適切な技量の向上や、より新鮮な素材を揃えるには時間や予算、様々な制約がついて回ります。だからこそ「まずい」という根本的な理由を解決するためには複数の問題を解決する新しい切り口を見つけなければなりません。そして、それら問題を一挙に解決する方法こそがアイディアなのです。
でまあ、このゲームがまずいことはわかりました。いや、面白いはずなんですが。間違いなく面白いはずなんですが、まずいを連呼されるとさすがに意固地な価値観も少しは揺らいできて、そうなのかもしれない、と思えてくるようになるのです。この揺らぎが実は大事で、やはり大事に大事に守り通してきた価値観であっても、現実とどこかで折り合いをつけなければ「自分のゲーム」はいつまでも「みんなのゲーム」にならないのです。
ただ、ぼくは基本頑固なので価値観を曲げていくには多大な労力と時間が必要で、自分を鞭打つが如き結果の見えたテストプレイを繰り返し、苦行であると同時に悟りを得るための修行を重ねる必要がありました。
今回は幸か不幸かそういう事態には直面しなかったのですが、素晴らしいアイディアを誰かに提示されたとして、ぼくがそれをすぐに受け入れられたのだろうかと言えば、少し疑問が残ります。ぼくの性格的にそれは受け入れられないと思うのです。だからこそぼくはアイディアを自分で見つけるしかなかったとも言えます。悟りは与えられるものではなく、自ら見出さなければならないのです。
しかし、実際どうやったらこのゲームが面白くなるのか。その根本的な原因は闇に閉ざされたままです。
考えて、考えて、考えて、考え続けました。前回のように自転車で遠乗りすればいいアイディアが湧いてくるかも、と試してみましたが、これは全くの徒労に終わりました。時間だけが刻々と過ぎていきます。カードデータの入稿まであと半月、ルールの入稿まではもう半月。いずれにせよ、もう猶予がありません。
やはりここはこのゲームが押し出すべき本来の魅力に立ち返るべきなんじゃないか。このゲームの魅力、それは一体何だろうか?
それはやっぱり、ドラフトを通して完成する無言の意思の疎通……なんじゃないか? 今のあやつり人形式のドラフトにはそこに大きな問題点がある。上家の意思を下家が拾えない。いや、全部を拾う必要はないし、誤解があってもいい。でも、現状、その判断は運任せに過ぎる……
だからこそオークが勝ちづらい。決め手である「復讐」「数の暴力」に問題があるんじゃないか、と疑われる。でもそうじゃない。そうじゃないんだ。
オーク同士のコミュニケーション成功率が上がればカードを弄らなくてもオークの勝率は上がる。カードの威力を上げても同じ勝率は得られるけど、それはただの運ゲーだ。勝つ喜び、成功する喜びがない。
だからこそ、コミュニケーションをより円滑に進めるための工夫がいる。運に頼るんじゃない、論理的に成り立つ工夫。
だとしたら、そうか、これは…… そもそもこのあやつり人形式ドラフトにこそ誤解があるんじゃないか……?
あやつり人形では最初にランダムに1枚カードを抜く。それは初手の選んだカードを下家が読みづらくするためだ。
なぜかと言えば、あやつり人形は上家の意図を100%下家が把握できちゃいけないゲームだからだ。上家の意思をぼやかすために構築されたメカニズムだ。つまり、それはコミュニケーションの断絶を目的としたメカニズムと言い換えてもいい。
そしてぼくが望んでやまないものはそれとは全く真逆のものだ。ドラフトを介して意思疎通を図る。だから今ぼくがやろうとしていることは、北風で旅人の服を脱がしにかかるようなものだ…… まったくのあべこべなんだ!
あやつり人形は名作だ。紛れも無い名作。だけど、そのメカニズムを間借りすれば全てが名作になるわけじゃない…… 姫騎士には姫騎士のための…… 姫騎士のために設えられたメカニズムがいる。
こんなことを。こんなことをデータ入稿の半月前に考えていたのだから、なんというか、遅すぎるだろという話ではあって。こんなのはもっと前の段階で解決していなければならない問題ではあったんだけど、本当にこの時期まで、ぼくはこのやり方で押し通そうとしていたのです。
遅かった。本当に気づくまでに時間がかかった。色々な原因がありすぎて一つには限定しづらいんだけど、理由の一つとしてはぼく自身のあやつり人形への無批判の信頼があったのかもしれないと思っています。
だから、その盲従に等しい、無垢な信頼、このバスに乗っていけば大丈夫だという安心が、実はまったくの見当違いだったと気づいたのがまず衝撃的で。それをいやいや違うんだと抗弁するのに時間をかけて。そして納得するまでもう少しの時間が必要で。それから残された期間を再確認して、ぼくはほど近い未来に横たわる暗澹たる光景を幻視したのです。
それからぼくは先の暗い、出口の見えない日々を過ごしていました。やり直しの効かない、残り僅かな猶予での、現実的な敗戦処理。
困ったことに、このゲームは見た目は悪くなく、むしろ素人の手によるところこそあれ上出来なんじゃないかという部類で、出したら出したなりきに売れるんじゃないかという予感はありました。ただ、それは同時に最悪の未来をも意味していました。
このままこのゲームを世に送り出したら失笑を避けられない。失笑、あるいは失望、もしくは非難? このゲームへの期待がそのまま矢となってぼくの腹に帰ってくるのです。最悪の未来。
そんなのは。そんな事態はなんとかして避けなければならない。
刷新。刷新をこそ、その時のぼくは必要としていたのです。まさにアイディアの到来を。
悩みながら、息絶え絶えになりながら、なんとか手を打つべくぼくはバチさんにある一つのお願いをしていました。それはもう1枚のカードの追加です。バチさんの仕事が早く、既にこの段階でカードが全て完成していたのが幸いしました。
後に「映し身」となるこのカードは当初の予定にはなかった1枚で、プロモカードという扱いでの追加発注で生まれたものです。
まあ、名目はプロモカードではあったんですが、手詰まりの現状をなんとか打開する一手にならないかという気持ちが強かったのが本音です。うまくカードセットにハマってくれれば別のカードをプロモカードとして差し替えてもいいだろうと。
とは言え、こうした追加発注は奥の手も奥の手ではあって、この1枚がダメだったとしたら、もうホントに打つ手なし。さらにバチさんにお願いするのは心情的にも納期的にも厳しいので、まさに取り得る最後の手段ではあったのです。
バチさんにお願いする傍ら、ぼくはぼくの責任を果たすべく苦慮していました。新しいドラフトの構築を。
限られた期間。もう既に用意されたコンポーネント。パズルのピースはほぼ出揃っていて、今から最後のピースを作り始める。そんな難題です。全てを壊して1から再構築する方がラクなんじゃないかとさえ思えます。
岩田社長がMOTHER2を手がけた際の「現在のこのプログラムを活かして直すには2年かかります。でも、いちからつくり直していいのでしたら半年でやります」という言葉を思い出します。ただ、これは岩田社長がずば抜けたプログラマーであったからこそ言えた文句です。凡人であるぼくには2年をかけてでもこれまでの成果物を活かすしかないという選択肢しか残されていないのです。
さて、そもそもドラフトとはなんなんだろう。あやつり人形式のドラフトは手段であり、目的ではない。このゲームの楽しみどころはあやつり人形の楽しみどころとは異なるんだから、手段となるドラフトもそれに適した形があるんじゃないだろうか?
ドラフトはつまりカード分配の手法の一つだ。世には変形ドラフトとしか形容できない数多くのドラフトのメカニズムがあるけども、それらの違いはまさに分配ルールの差異でしかない。例えばBGGだとチケットトゥライドさえもドラフトに分類されている。これは日本のゲーム観からすると不合理にも見えるけども、「ある特定のルールに則ってカードを分配するメカニズム」という定義に添った内容と考えれば納得も行く。
つまり、このゲームだってチケットトゥライド方式でカードを分配したって構わないワケだ。エンジンとして成り立つかと言えば成り立つ。
ただ、ゲームとしては成り立ち方が変わってくる。公開情報があまりにも多すぎるからだ。
だからこのゲームにはカードを分配しながら適切な公開情報及び非公開情報をコントロールするフィルターが必要になる。見えること。見えないこと。見えないものを伝えること。見えるものを隠すこと。それぞれが重要でかつ適切な配分がある。全てが見えてはいけないし、全てを隠してもいけない。そういう意味では情報量の見せ方の一例があやつり人形式ドラフトだった。つまり、逆に言えばあやつり人形から貰うべきところはそこしかない。
あやつり人形には情報の扱いをこそ学ぶべきで、カード分配の手法に関しては別のやり方があるんじゃないか……?
もっと考えを進めよう。4人のプレイヤーに手札を1枚配る。それで4回のアクションができる。そう、極論すればエンジンに求める機能なんてのはそれだけだ。あとは配り方の捻りでしかない。
……いや、ダメだ。猶予を考えると大幅なバランス変更はなんとしても避けたい。アクション数を5つと規定した上で新しいエンジンをデザインする必要がある。4回じゃ1つ足りない。1つ。4人に1枚ずつを配ってなお1つ。
8枚のアクションカードを1枚ずつ配る…… 4枚余る。じゃあもう1枚配る。手札2枚。そこから5アクション。どうやって? 姫騎士だけ2枚使わせるのは…… いや、ダメだ、オークが4枚使う形でバランスが組まれている以上、姫騎士が2枚使うと瓦解する。
なんとかオークにもう1枚。姫騎士の左隣のオークだけ2枚使う。これは悪くないか……?
いや、それよりも…… そうだ、新しく頼んだもう1枚を使えば。
アクションカードが9枚使えるなら、2枚配って余った1枚を有無を言わさず使えばいいんじゃないか?
手札を2枚ずつ配る。1枚は脇に置く。どこに? 姫騎士の右脇にでも置いとくか。で、1枚手札を選んで左隣に回す。ただし、オークと姫騎士の間のカードだけは脇に置いたカードを経由する。脇に置いたカードは次の姫騎士の予告手札。キューに入った状態なワケだ。
このカードは伏せて…… いや、伏せなくてもいいのか? 公開か非公開か。情報量はどうなんだ?
この形だと情報量が多分足りない。だから脇に置いたカードを公開して…… 姫騎士とオーク、全員が参照できる1枚を作る。
これならその1枚が推理の起点になり、無言の相談の軸になる。コミュニケーションの核になる……?
待て待て、具体的にアグリコラのドラフトから考えよう。5人プレイでのドラフトでプレイヤーが確認できるカードは35枚中7+6+5+4+3の25枚。プレイヤーは全体の71%のカードを確認することになる。
この数字は重量級ゲームに許される限界の数字だ。情報量が多ければゲームは読みが強くなるし、少なければ波乱が起きる。アグリコラのこの情報量は若干の波乱を起こすための配分だ。
単純に最初の手札2枚、回ってくる2枚で44%のカードを確認できる。伏せカードを公開することで、確認できる枚数を5〜7枚まで増やせる。
理想的なドラフトが行われればオークプレイヤーの情報量は55%〜77%? 同じオーク同士でも情報格差があるのは面白いかもしれない。
対する姫騎士は…… それでも5枚はわかる。55%。ちょっと足りないか? でも握り潰せる1枚があるのは強い。
数字としては悪くない。読みを効かせるには十分な根拠があるし、波乱の余地も残っている。数字は、悪くない……!
そのアイディアは唐突に訪れました。唐突とは言いましたが、脳内ではこんな感じで、そのアイディアの妥当性を精査し続けていたのですが。
最終的に姫騎士ドラフトと名付けた非対称対戦に必要な情報量を備えたドラフト形式は、こんな形でテストを待たずに完成形でぼくの脳内に降りてきました。まさにこれは「降りてきた」としか言いようのない体験ではあって、奇跡的とも言える出来事です。もし、この閃きがなかったら…… そう考えると怖気が震います。
ただ、これ自画自賛になりそうなんですが、閃きは与えられたものではなく、ぼく自身が悩みに悩んで捻り出したものではあると思うんですね。考えて、考えて、考え尽くして、それでようやく辿り着いた答えなんだと思うんです。
なのでやはり考えること。常に考えること。考え続けること。それしか解法はないのかな。いや、うーん、わからんな。
結局ぼくの製作経験は乏しいので、この一例が全部ですとしか言いようがないんですが、もしかしたらこんな苦しまなくても解決に至ることはあるのかもしれないし、そういう道筋もあるのかもしれません。まあ、とりあえず今回はこういう形でした、というだけの話なのです。
さて、唐突に思いついた姫騎士ドラフトですが、実際これがうまく回るのかどうかはテストしてみないとわからんのです。なので、いつものテストプレイのメンツを呼んで試してみたところ…… 明らかに反応が変わりました。これまでよりももっと温度の高い、悩むことを苦しむのではなく、悩むことを楽しむ空気。各人が好き勝手に独り言を言い連ねるそんな時間はこれまでのテストプレイにはなかったものです。なにせこれまで、手札が回ってくるまでプレイヤーには情報という情報が殆ど与えられなかったのですから。
この姫騎士ドラフトはぼくが思っていた以上の効能を持っていました。ダウンタイムの大幅な削減。それは世界の七不思議とあやつり人形を比較して貰えれば一目瞭然なのですが、いわば姫騎士ドラフトは変種のパックドラフトなので、世界の七不思議の利点でもある同時解決によるダウンタイムの短縮という恩恵に与ることができたのです。
この時、ぼくはようやく初めてこのゲームに手応えを感じたのです。
さて、この時のテストプレイヤーにはあひるホイッPもいました。あひるさんは以前も姫騎士逃ゲテ〜に関して鋭い洞察を披露した方なのですが、そのあひるさんがこの変更に対してどんな反応を見せるのか、ぼくが一番気になっていた点はそこでした。
反応は悪くなかったと思います。思います、というのはその後のあひるさんの一言がとても強烈に印象に残っていて、それ以外のことをよく覚えていないからです。
「これが、円卓Pが本当に作りたいゲームなの?」
非難する口調ではなく、それはぼくが一途に続けてきた節を曲げてしまったんじゃないかというあひるさんの気遣いからの一言だったのではないかと思います。まあ、その辺詳しくは聞いていないんですが。
「ぼくが作りたいのは面白いゲームだよ」
迷わずぼくはそう答えました。
本当に面白いゲームを作りたい。ただその一心でここまで来たのだと思います。変な話、言い切ってから、ああ、そうか、ぼくは面白いゲームが作りたかったんだ、ということに気付かされたりもしたんですが。
やっぱりぼくは任天堂っ子なので今度は宮本茂氏の言葉を引用するのですが、
「(任天堂の様々な)問題を解決するのは大ヒット作ではないかと思っています」
という言葉は確かなのだと思います。まあ、ぼくの場合は大ヒット作を面白いゲームに置き換えて「問題を解決するのは面白いゲームだと思います」程度の話なんですが。
面白いゲームを作ることが誰もがハッピーになる手段であり解決策でありアイディアなのではないか。そう直感的に捉えてぼくはこの場所に辿り着いたと思うのです。それまでの道筋は全く平坦ではありませんでしたけども。
さて、テストプレイの結果、驚くことに予期していたカードバランスの再調整はほぼ皆無で済みそうだということがわかりました。カードバランスに関してあれだけうるさく言っていた人達が殆ど何も言わなかったのです。これは追加のテストプレイの工数が削減できたやったーという話でもありますし、これまで続けてきたカードバランスの調整の賜物でもあります。だからドラフトの形こそ刷新されたものの、これまでの全てが無駄だったかと言えばそういう話ではないのです。全てテストプレイの上で成り立っているのです。
そして、やはりカードバランスそのものの調整ではなく、その底に眠る「まずさ」の追求と改善こそがあの場では必要であって、それら問題を解決するアイディアを捻り出せたことがこの姫騎士逃ゲテ〜の幸運ではなかったかと思うのです。データ入稿〆切2週間前でしたが、ぼくはもうこちらに舵を切ることに決めました。公開カードの位置に関して若干の考察が必要ではありますが、まあ、それは工数としては微々たるものでした。
話が長くなりましたが、こうして様々な面倒くさい出来事を経て皆様にお届けできたのが現行の姫騎士逃ゲテ〜ということになります。これでこの半年間の大まかな記録を書き出した形です。やっと終わった!
ぼくにとってはこのゲームの記録は完成をもって終わりという形になるのですが、多くのプレイヤーの方々にとってゲームとは購入して実際に遊んでみてからが始まりなので、ぼくがやっと終わったぞーと思っていた端から、実は新たな製作記録が始まるのかもしれません。
それはひょっとしたらまた次の機会に……
ラベル:姫騎士逃ゲテ〜